夢中塾

  ~牛島日出男が提唱する人間性回復運動のススメ~ 

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最新のお知らせ



2025年もどうぞよろしくお願いいたします!

話題提供者 古賀弘徳さん

2025年1月12日


 テーマ   

「書籍 「人間性回復運動」を読み解く



 

「牛島日出男の人間性回復運動」:第一、第三日曜日
15:00-16:30
参加は無料です。
ZOOMができればご参加いただけます。
「耳だけ」の参加も可能です。

 ご案内のメールマガジンをご希望の方は下記へお申込ください。


第81回

申込フォー

今後の話題提供者  

1月12日   第81回   古賀弘徳さん    「書籍 「人間性回復運動」を読み解く
2月2日   第82回   ヘス明美さん
2月16日   第83回   牛島日出男さん

 

主宰:牛島日出男プロフィール

人間性回復運動

自分がこの分野でのエキスパートになれたのは、皆の助けがあったからこそです。それが志を同じにする仲間たちと、情熱とスキルをもって新しいムーブメントを生み出す仕事に携わる理由です。

 


2022年で89歳になりましたが、今尚人間性回復運動に夢中になっています。世界中の人がお互いを信じ合い、人間として素晴らしい世の中にしていくように頑張りましょう. 

  牛島 日出男(うしじま ひでお)
◆1933年 熊本県山鹿市にて出生 現89歳
◆慶応大学通教在籍中に起業し、20代で クラウン電気商会、㈱朝日商工、㈱朝日物産、 ㈱千代田ツーリスト他、合計15社を起業しその経営をする
◆1960年代に松下幸之助氏、土光敏夫氏、盛田昭夫氏等 昭和の経営者の知遇を得る
◆1966年7月マザーテレサの影響を受け、人間性回復運動を起こし今日に至る
◆1980年5月 ㈱人財開発研究所を起業し、企業・自治体等の教育研修を主業とする
◆2013年7月 ㈱人財開発研究所を禅譲し、人間性回復運動に打ち込んでい

著書
・人間性回復運動(2020年)
・あなたへの感謝の気持ちを込めて(2020年)

メールマガジンより

 

 

 
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   『明けましておめでとうございます』  25.1.4

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明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。
 
初夢と良く言いますが、あなたの初夢は如何でしたか?
 
ところで夢とは一体何なのでしょう。この様に考えられないでしょうか。
心の中に生じてくる瞬間の「おもい」だというふうに。
 
その心って何なんなのでしょう。
「こころ」とは何か、どこかに存在するものなのでしょう?
 
私は本来「こころ」とは「無」なのだと思います。その無の中に私達がいろんなものを
入れているのではないでしょうか。
 
そこに自分が想った事や考えたことが溜まってきて、一つの「おもい」として表れてく
るのだと思います。それもその瞬間ではないでしょうか。
 
しかもその「こころ」が全ての中心になっているのも不思議なことです。
と言うことは「中心」は「無」なのです。
ですから、心と言う字がいろんな所に現れてきます。
例えば「安心」「心配」「気配り」「志」、愛と言う字を辞書で引くには「心」の旁にあります。何か「心」というものが私達が人として考え想う時に作用するものだと思います。
ただ心がその様に考え想うのではなく、瞬間の作用だと思うのです。
 
ですから、常に自分の今に正直に反応している人の気持ちは綺麗なのでしょう。
心が綺麗なのではなく、今に素直に生きている事がその様に映るのだと思います。
 
このように考えますと、今に生きると言う事は、無心に今の自分に正直であるということ
なのだと思います。
 
私達は常にいろんな状況の中に生きています。
その時、その状況を肯定的に受け止めて居る人と、否定的にとらえている人では動きが
変わってきます。本来その状況は瞬間の流れなのです。
 
その事に対する反能がその人の想いとなり、楽しみ、苦しみ、喜び、悲しみとなったり
するのだと思います
 
全てのことは、この様に自分の中に「何か」を作り出しているにすぎないのです。
心は本来「空っぽ」なのだから、そこに想い考えたことがその一瞬に現れるのです。
この一瞬に気がつけば「夢」が何だか解るような気がします。
 
私達は外側の世界から入ってくる一瞬の作用に応じて「夢」を見るのです。
これが夢の本質の様な気がします。ようするに、根っこは「何もない空っぽ」だと云う
事です。ですから、私達はこの一瞬を大切にすることが必要なのです。
 
昨年から今年へ、過去から現在へとそして未来へと、時が移り変わっているように考え
ますが、私達が体験していることは全て「今」なのです。
常に今・今・今という連続の真っただ中に居るだけです。全ての存在は今なのです。
 
仏語で「即今」という言葉があります。
私達は過去を思い煩い、未来に期待するのではなく今という瞬間を精いっぱい生きている
ことが大切なのだと言うことだと思います。
しっかりと今に集中し、今を感じ、今の自らに生命を与えていくことです。
 
人里はなれた静かな所で修行したとしても、全ての人が悟るとは限りません。
 
人の世界にはいろいろと喜怒哀楽があるではないですか。
それらを避けたり逃げたりせず、真正面から向き合うことが必要だと思います。
 
人としていろんな煩悩に悩まされる事があります。それを切り捨て、聖人ぶってみても
始まりません。
それらの煩悩を煩悩として認める勇気が必要なのだと思います。
そうしてこの煩悩と真正面に向き合い続けていくのが私は人生だと思っています。
 
いかに、今に素直になっているかが大切だと思います。人を見て、物事を見て、状況を
見て、良いとか悪いとか二値的判断に陥ることなく、素直に今その時その人を受け容れ
ることが今に生きているということではないでしょうか。
 
人間性回復運動は、過去に捉われることなく、今このときの気持ちを率直に認め合い、
人としての生きる智慧を体得しようという事なのです。

 


◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◇   『創造力を高める』24.12.28

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 今年最後のメルマガになります。素敵な新年をお迎えください。
私も来年は92歳になります。
自分の歳に負けないように更に自分を磨いていこうと決意しています。
それは創造力を高めることです。
 
長らく、企業や自治体の教育研修に携わって来て居りましたが、私の思い込みか、
最近知識ばかり詰め込んでその知識をひけらかす受講者が多いのに嫌気が差すことが
再三でした。
そういう人に限って、今日の時代は情報と発想力が大切なのだと言われます。
私も今日のような厳しい環境の中で、組織が時代に対応し更に成長して行こうとする
時、情報と発想力そしてそれに基づいた行動力が必要であることは重要なことだと
思います。
 
ただその知識も、教わった知識の受け売りであったり、情報も聞いたままの事をその
まま伝えたのでは、その元の知識・情報以外の価値があるとは言えないと思います。
 
知識にしろ、情報にしろ、元になる知識・情報に自分なりの新たな気付きを伴って
こそ、価値が高まるのではないでしょうか。
何でもそうでしょうが、自分の頭の中で考え、感じ取り新たなものとして創り上げて
いくスキルが必要なのだと思います。
 
極端とは思いますが、今日の日本に於ける教育の問題は、感じ取る力が弱まってきた
人が多いこと、自ら考えることが少なくなってきていることだと思います。
教える側にも問題があります。手っ取り早く進めるために1から10まで教えることが
良いことであるかのように思っている教師や講師が多いことです。
 
価値を高めるためには、自分の頭の中でそれら得たものを加工するという作業が必要だ
と思います。その知識や情報を加工する過程で「発想力」が高まってくるのです。
発想とは情報と情報との組合せから生まれてきます。
 
私達の周りには、その様にして生まれてきたものが一杯あります。
違うもの同志を結び付けて新たな商品として生まれてきたもの、異業種の企業が合併し
新たな仕事を生み出しているところ。全く価値観・想いの違うもの者との交友から生じ
てきた新たな関係。
発想とは、ある日突然全く無知のことから生じてくるのではなく、潜在意識の中にある
ものが、あることに遭遇した時新たな形で顕在化されてくるものなのでしょう。
 
その様にして新たなものを生み出す発想力を高めるためには、私達の周りにあるいろい
ろなプロセスを感じ取る感受性を高める必要があります。
感受性には
1.状況に対する感受性 
2.問題に対する感受性
3.人に対する感受性、
があるといわれています。それらを社会的感受性と呼んでいます。
 
人間性回復運動は、その社会的感受性を高める運動です。
相手から得た情報をそのままの状態でアウトプットするのではなく、自分の持つ情報や
気持ちを統合してアウトプットして行きます。その様な関わりを習慣化し、発想力を
鍛え知識や情報の価値を飛躍的に高めて行こうということです。
 
他者との関わりからお互いに対する関心を高め(対人感受性)、
それらの人達の問題を相互の問題として共有し(対問題感受性)、
その場の状況から何をしたら良いのかをお互いが気付いていく(対状況感受性)を高め
ていこうという運動です。



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『新しく自己変革を』

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アメリカのトランプ政権の再登場を目の前に控え、いろいろと憶測が乱れ飛んで
いるように思われます。

貿易摩擦が起きるのではないかとの不安、世界の経済不況の中で大変な不況に落ち
込んで行くのではという思いを抱えているのではないでしょうか。
 
このような時こそ、自分の考え方や行動の変革を図るチャンスなのではないかと言う
思いがします。
 
世の中いろんな面で、大きく変わって行くのではないでしょうか・・・
 
あなたの周りにはどんな変化をお感じになりますか?
きっとあれもこれもとお気付きになることがあると思います。
スーパーに行ってみると驚くほどの変化があります。
身の周りの変化に対応し、自分自身も変わらなければならないと思います。
 
私も今までの人生経験から得てきたものに拘ることなく、今までの常識と言われてきた
ことに捉われることなく、勇気をもって自分の生き方やり方を変えていかなければなら
ないと思い実行に移しています。
自己変革の時だと思います。
今後どの様に世の中が変わっていくのか分かりません。
誰も経験していない未来のことなのです。
ですから変わっていくことに抵抗することなく、素直に受け入れて行くことではないで
しょうか。
 
そのためには自らの習慣も変えることだと思います。
今までの習慣を捨て、今新たな習慣を生み出していくことが大切だと思います。
自分でこう思ったこと、こうしようと思ったことを実践してみることです。
その時その対象がどう反応しているかを素直に認めそれを習慣化することです。
 
良い習慣は良い人生を築いていきます。
何事も無意識に行う良い習慣にするには、意識的に実行していくことが必要だと思い
ます。そのうちにその様に行動している自分を見出すはずです。
 
それが習慣というものじゃないでしょうか。
小さな事でも継続して実行して行くことによって習慣化していくものです。
その習慣化が自らの変革に繋がるのだと思います。
 
自己変革を図るとはまた、自からの成長のための学習であると思います。
人はいくつになっても自分について学ぶことが求められています。
 
その事は自分自身がまだまだ未熟であるということを率直に認め受け入れていくことが
必要です。即ち自分自身に謙虚であることです。
そこに気づきがあり、学びがあるからです。
生涯学習の基本は自分自身に謙虚であり、率直であることです。
 
何故、変革が必要かというと、変わっていく環境の中では、今まで良いと思われて来た
ことさえ、期待されなくなってきているからです。
失敗があっても新たな挑戦のみが変革を起こしていくものだと思います。
 
昨日と今日は違います。
極端かもしれませんが今朝の気持ちと今の気持ちは変わってはいませんか。
その様に変わっているのです。過去にこだわり、今を見失っては居られません。
積極的に自らの変革を図っていきましょう。




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『再度甘えについて』24.11.23

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最近の若い連中は理屈を捏ねるばかりで、素直に甘えることを知らないようだと老人クラブで耳にしました。

私が若い頃、「よく、甘ったれるな!」と叱られたものです。

そうは言いながらも、ちゃんと力になって呉れて居ました。
そういう中で年長者や経験者に感謝の気持ちが育って来たように思います。

以前土居健郎著『「甘え」の構造』について話しましたが、再度考えてみたいと思います。甘え」というと、何となく好ましく無い意味で使われることが多いようです。
しかしそうとばかりは言えないようです。

 

近所の若夫婦の赤ちゃんに「いない、いない バー」と言って関わったら、その子は「甘えたい」という気持ちを素直に表現し手を出してきました。

その手をとり抱きしめてあげると、満面の笑みで応えて呉れました。

その子の満ち足りた笑みは、何とも言えない喜びを私の中に応えてくれたのです。

 

それを見て、私は更に気持ち良く甘えさせてあげたくなりました。

 

そうやって甘えられる大人がいるから、子供は安心して自分の世界を広げていくことが出来るようになるのだなと感じました。

 

甘えを素直に表現することは、人との絆を作り自分の世界を更に広く繋げていくのではないかと思いました。

 

そう言えば ~大人でも一緒だな~と感じました。


甘えを素直に表現し親との絆を深め、自分の世界を広げていくことができる様に自分の感情を素直に表現できる人程、人と深い絆を創り上げ、より良い自分の可能性を広げていけるのではないかと思えました。

 

稍々もすると、理論理屈を広げながら話し合って居る時って相手との間に共感的な理解を、感じることはないように思います。

 

土居健郎著『「甘え」の構造』の中で、土居氏は甘えが人類に共通する欲望であること西洋では甘えを抑圧してきたのに対し、日本は甘えを許容してきたことが、日本文化のユニークさを形づくってきたこと等を解説しています。

 

甘えを無限に肯定しているわけではありませんが、甘えには人間関係を円滑にする意味での積極的な価値を認めている点に、本書の独創性があるように思います。

 

しかし、私はそれらの事が見落とされてきてしまったようにも思うのです。

 

近年、自己責任や成果主義という言葉が定着してきました。しかし私はどうも行き過ぎている感じがするのです。

 

個人の自立を大切にするあまり、助け合いや協力のない社会にしてしまい、どうも生きにくく自己実現のしにくい社会してしまって居るように感じます。
家庭や職場までがギスギスとなってしまい、個人の居場所でなくなっているような気がします。
背景には、甘えの欠如があるように思うのです。

 

土居氏も、2007年の増補に当って追加した文章の中で、本来の意味で甘えられる相手や場所が無くなってしまったところに現代の深刻な問題があると述べて居られます。

 

では、どうしたら甘えられる相手や場所を確保できるのでしょう?

 

私たちが余りにも社会規範に強く結び付けられ、これでもかこれでもかと自分を律し過ぎて、人間として自然に生きる能力を失ってきているのではないかと思うのです。

 

人間性回復運動は、もっと人間らしくお互いの甘えをも受け容れ、自分の生き方や社会のあり方についても、もっと自由に考えその中から本当に自分大切生かしていく力を体得して行くことが大切だと思っています。


 

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    『自分を生きるとは』24.11.16

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「自分を生きる」とは、自分を偽ることなく正々堂々と生きることだと思います。
大切なことは、自分自身を素直に受け入れているかどうかだと思います。
 
誰でも自分が一番大切な存在だと思う所為か、自分を守ろうとし他者と争うことも
有るようです。
 
そのような自分であることを素直に受け容れている人は、他者と争うことも無く
あるがままに生きているのではないかと思います。
 
良し悪しではなく、自分をあるがままに受容していれば、敢えて自分を守ろうとする
必要もなく争う必要もないと思います。
 
人は誰だって幸せでありたいと思って居るのだと思います。
その幸せは他人から与えられるものではなく、自ら創り上げていくものだと思います。
最近特に強く思いますのは、かってのように金銭時に物質的に何不自由のなかった時に
比べ、今が如何に幸せであるかということです。
 
私たち夫婦も私が91歳、妻が87歳となって居りますが、遠くに離れている息子や娘
が事あるごとに案じて連絡をくれ、見舞ってくれることが何よりも嬉しいことです。
 
その様に家族に、多くの知人に受け容れられている自分なのだと認めたとき無性に幸せ
だなあと思われるのです。
 
幸せって自分で築いていくものだと思って居たがそうではないようですね。
自分一人じゃないのです。そう思うと、幸せって皆さんから世の中から頂いているもの
ではないかと思われて来ました。頂けば必ずお返しをしたくなりますよね。
そのお返しをすることによって、また感謝され喜びが与えられるのですね。
 
その様に、今の自分をあるがままに受け容れて頂き、幸せを感じて生きている時、本当
に「自分を生きている」のだと思います。
また「自分を生きる」ということで、ただ今を生きているということだけじゃなく、未来
の自分を追い求め新たな自分を築いていくことが、より大切じゃないかと思うのです。
 
  その未来とは自分の存在価値です。
自分が何をやり、何を貢献できたかという価値を認めることが出来るかということです。
未来には限りはございません。
自分の可能性を信じ相応しくないなどと思い煩うことなく、自分を精いっぱい生かし切る
ことだと思います。
 
自分を信じ自分を愛し、自分を精いっぱい生かし切った人こそ他人をとことん信じ愛せる
人だと思います。
私はその様な時に、「自分を生きる」ことが出来ているのだと思っています。



◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◇  『天命の人間性回復運動』24.11.9

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  目の不自由な人の世界は、手で触れられる範囲に限られている、無知な人の世界は知識の及ぶ範囲に限られている。偉大な人物の世界は、その人の持つビジョンの範囲によって決まる。」
とジョン・C・マクスウェルが言っている。

 

どうもこのことが解っていない人が多いみたいだ。

そういう私もまだまだ自分の手にだけ頼っているようだ。

今日こんなことがあった、今日こんなことを見てきた。

今日こんなことを言われたと、自分の範囲以内で反発したり、納得したりしているようだ。

 

何故そのことがそんなに大切なのか?

何故その事に拘るのか?

何故そんなに気になるのか?

それは自分のビジョンが明確になっていない所為なのかな?と思う。

私は時々、ビジョンというより、自分の宿命みたいなものを感じる事がある。

 

それは中学時代に遡るが、昭和23年の北陸大震災の時に、必死になって募金運動を行った。

その時の行動を、我が事のように喜んでくれた亡き父の面影が、いつまでも瞼に焼き付いているからの様に思う。

「人の役に立つことは人に喜ばれることが大切だよ」、と言っていた父の生き方が、そのまま私の宿命になったようだ。

 

運命には二種類あると言われます。

一つは自分の力で切り開いていけるもので、それを宿命と言います。

一つは自分の力ではどうすることも出来ないのを天命と言います。

 

宿命は自分が何らかの目的を持ち、その実現のために実践行動することによって変えていける、または乗り越えていけるもの、即ち自分にとって新たな価値が生じてきます。

その事に対して自らに責任が生じてきます。それが宿命です。

大切なのとは、やるべきことを最大限に行い、後は天命を待つのみだと思います。


私もいろいろなことに憧れて来ました。何かに憧れるだけだったら誰だってできると思います。

 

私が本当に憧れたのは、「人のため」「地球環境のため」「世界平和のため」「貧困絶滅のため」等と、そこに自分の価値を見出しその価値を活かしきるために精一杯頑張ることに自らの宿命を感じ、そのことに全力を投入し天命を全うしたいと思います。

人間性回復運動は、この様な私の価値観が土台となって生まれてきたものです。

自分自身を再確認し自分の生き様を考え自分の進むべき方向に自信をもって邁進することです。



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 『自分の心に従って』24.11.2

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「 いくらやってもどうにもならない!」と自分には無理だと途中で投げ出して

しまう人が多いようです。

それは自分でこうやろうと思いながらも、最後までやり通そうという気持ちが

ないだけではないでしょうか。

本当にやろうと言う気持ちがあるのなら、自分から投げ出してしまうようなこと
は無いはずです。そうしてしまうのは自分の心のどこかに最初から難しいとか、

私には無理なのだと言うネガティブな思いがあるのではないでしょうか。

私達の心とは、自分だけの世界だと思います。

不幸とか幸せとの気持ちになるのも、自分の気持ち次第だと思います。

自分がこうするのだと目的意識がはっきりとしているなら、何としてもそれを
達成しようとするものです。

先ず目的意識をはっきりと持ってこそ、行動が伴うものです。

理想なんって、夢にしか過ぎないよ!という人がいるかもしれません。

確かに“夢”と言う言葉には非現実的で、実現不可能という感じが伴いますが、

そのままにしていては、夢で終わってしまいます。

その夢を実現するために行動を起こした時に現実として価値が生じて来るもの

です。実現できないのは、自ら実現しようとする意識も行動も伴わない単なる

妄想にしか過ぎないのです。

“夢”を自分の未来におけるあるべき姿として確立できたとき、その“夢”は

自からの目標となってくるのです。それは最早“夢”ではありません。

その目標は達成しようと行動を期する時、自からの信念と変わって来るのです。

信念があるからこそ、自分を信じ自分を「あるがままに」生かそうという自信
も生まれてくるのではないでしょうか。

自らの大切な一生です。自分の心の侭に自からを信じ自から行動することです。

今自分がどのような立場に居るとしても、その肩書きをはずして人対人として

接することが出来るなら多くの事を体得できることでしょう。

そういう時、あるがままの自分に気づき、自分を偽ることなく生きていく勇気

と自信を得ることが出来ると思います。本当の自分を生かしましょう。



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『身をもって知る尊いチャンス』24.10.26

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松下電器の創業者松下幸之助氏の著書を読んでいて『身をもって知る尊いチャンス』
という言葉に心を打たれました。

あの松下さんがあそこまで来られるのに大変な窮地に追い込まれた時が何度も有った
そうです。

 

その様な時、普通の人は自分の不遇を嘆き、他人に助けを求めようとするのではない
でしょうか。
私も再三その様な状況に立ったことがあります。

 

そんな時いつも『身をもって知る尊いチャンス』の一言に、勇気を得て来ました。
血の滲むような苦境の時です。

 

しかしそれらの体験は私だけがしているのでは無く他の誰もがしているのだと思うと、
何とかしてこの苦境を抜け出そうと頑張ることが出来ました。
それこそ得がたいチャンスを得て来ていたのです。

 

そういう時って、思いがけない発想が生じてきます。
なにくそと言う勇気も生じてきます。
新しい知恵が次々と湧き出してくるのです。

そう思うと『身をもって知る尊いチャンス』とはこういうことだったのでと嬉しく
なりました。

 

Nさん、あなたがサラリーマンを思い切って辞めて新たな仕事に飛び込んだが、その
仕事にも行き詰まり、再度新たな道にチャレンジなさるとお聞きしこのメルマガを
書いて居ります。

 

この数年間が、あなたにとって無駄な数年間では無かった事を信じてください。

『身をもって知る尊いチャンス』として、今後にこの数年間を活かして下さい。

 

随分前のことですが、伊豆高原の海岸線に生い茂る樹々を掻き分けながら、妻と二人
で歩いて居りました。

波風にさらされてこうなったのか、山の斜面に今にも倒れそうになって生えている
大樹がありました。
根元を見ますと削られた斜面に必死になって根を張っているのです。

それを見て、凄く胸を打たれました。
恐らくこの樹は、こうして何年もここに耐えて来たのでしょう。

その樹の上を見ますと、何と早春の風を受け、高原の輝く太陽の光を受け新しい芽が
膨らんでいたのです。

なんて素晴らしいことではありませんか。
自分は必死で根を張り、幹を支え新しい命を育んでいるのです。

 

私達は自分の人生に、誰もが多くの人から期待や望みを持たれているのです。

あなたの可愛いお子さん、素晴らしい奥様、親兄弟そして親しい仲間とあなたに期待
し、あなたの成功を祈っている仲間もいるのです。

 

あなたのこの一年の尊い経験を、勇気を持って活かして下さい。

 

素晴らしいあなたのそしてご家族の幸せは、あなたがじっと耐え根を張っているその

姿に見ることが出来ます。

些細なことで、一喜一憂することなく大きな夢と将来に対する確信を持って自分自身
を生かしきってください。

 

また松下幸之助氏はこうも言われています。

人は素直さを失った時、逆境は卑屈を生み、順境は自惚れを生む。

素直さは人を正しく聡明にする。と

  



◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◇  『土光敏夫氏から学ぶ』24.1019

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もう随分前の事ですが、当時東芝の社長であった土光敏夫さんと雑談を
していた時、土光氏から「人財」という言葉を頂きました。
以後人材を人財と呼び土光氏の意思を継ぎ、「仕事」を「志事」と位置付け
するようになりました。
「志事」を通じた個々人の成長こそ、企業の使命であるとし、そこに企業
の成長があると思うようになって来ました。
 
人(ビジネスパーソン)として成功するための一考察として次の13カ条を
提唱致しております。
1. 志事に情熱を持っている
2, 主体性を持ち、今に集中し、今に生きる
3. コミットメントしている
4. チャンスを逃さない
5. 何事も大きく考える
6. 人生の3つのチョイスポイントを意識する「真に信頼できる友人・
心底打ち込める仕事・自ら発揮する知力」
7.  大きな問題に取り組む習慣をつける
8.  自分の目標またはモデルとする人が居る
9.  他人の持つものを心から認める習慣を付ける
10. 必要なことは,どちらかではなく両方を選ぶ
11. 人生は一度だ。その人生を活かしきれ
12. 決断は今だ
13. 人生目標と,その達成の為のプランを持つ
 
今日、ビジネスから離れ日々を謳歌するようになって、
改めて「成功するための一考察」として揚げて来ていたことが、
今を生きる人生の「一考察」となっています。
勿論当時と現在の私の立場状況は変わっていますが。一つ一つの考察は
表現こそ変われ、今も生きています。
 

  1. 志事に情熱を持っている

= 日々精いっぱい自分を失わないこと 

  1. 主体性を持ち、今に集中し、今に生きる

=今こそ我が人生

  1. コミットメントしている

= 全てを我がこととして打ち込んでいる

  1. チャンスを逃さない

= 全てにチャンスがある 

  1. 何事も大きく考える

= 小さいことに拘らない

  1. 人生の3つのチョイスポイントを意識する「真に信頼できる友人・心底

打ち込める仕事・自ら発揮する知力」
=今こそこれが最大の要件である

  1. 大きな問題に取り組む習慣をつける

=将来が大きく開けてくる

  1. 自分の目標またはモデルとする人が居る

=目標が自分のエネルギーとなる

  1. 他人の持つものを心から認める習慣を付ける

=他人こそ自己成長の見本
10.必要なことは,どちらかではなく両方を選ぶ
=必要なことは全部順次果たす
11.人生は一度だ。その人生を活かしきれ
=一度の人生に全力を投入する
12.決断は今だ
=今が全てだ、今行動することだ
13.人生目標とその達成の為のプランを持つ
=目標は掲げるものだけでは無く達成することだ。
 
91歳3か月になり、残る人生を精いっぱい生きていこうと
頑張っています。今後とも宜しくご好誼の程お願い致します。
ウッシー 拝 


◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◇   『今と言う時間』 24.10.12

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91歳にもなると、あと残されている時間はどのくらいあるのだろうかなどと、フット思われるものです。其れこそ貴重な時間です。
誰もが同じ時間を持っているとはいえ、その時間の感じ方って違うものなのでしょうね。
そう思うと、時間など感じてもいなかった時が懐かしく思われます。

 

ゲーテが「刻一刻と過ぎていく時間には、無限の価値がある。」と言っています。

 

私は,その大切な時間をそれだけの価値あるものにして来たのでしょうか?

どうでもいいようなことに、時間を割いていたような気がします。

その時その時を大切にしていたのなら、何も必要もないことに時間やお金を使うようなことはなかったと思います。


今と言う時間を意識せずに、その時その場を過ごしてきたような気がします。

 

それ程必要もないことに、今でなくても済むようなことに貴重な時間を費やしていたように思うのです。その結果今でなければならないことを見過ごしていたのでないかと思われます。

 

大切なことはいますべきです。後回しにすることではないはずです。

 

今というこの時間は、今だけなのです。
その時やらなかったことを悔いて、どうのこうのといったりまだ先のことでどうなるかも分からないことを案じて、要らぬ心配をしたりしていないでしょうか。

 

早いところでは、もう受験が始まっているようです。受験する本人も大変でしょうが受験生の家族の人も大変な時だと思います。

 

受験生は精一杯頑張っているはずです。

いい加減にして落ちていく人が居たとしたら、それもそれで良いのではないですか。
その人がその時間を大切にしなかった結果なのですから。

 

精一杯頑張って、不幸にして不合格になってもそれは素晴らしいことだと思うんです。
その人は、その時間に自分を賭けたのですから。

現在の自分に全てを賭け、そこに集中することこそその人の成長だと思うのです。

 

人生は大きな賭けです。一枚のトランプに大金を賭けるのと同じ様に、自分の現在を
より高価なものにしようと努力している(賭けている)からこそ、人は成長するのではないでしょうか。

 

今を大切に今に集中し、今を生きることこそ人生なのではないでしょうか。

 

人間性回復運動は、全て過去に捉われることなく、また将来を案じるでもなく今此処に
存在する関わりの中で、今の自分を率直に受け入れる勇気を得て行動することなのです。

 

 

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『自分へのこだわり』24.10.05

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私達にはいろいろな欲望があります。そうしてその欲望が私達にいろんな苦しみを与えます。

 

この欲望を忘れて、夢中に何かに取り組んでいる時、「こころ」にゆとりと安心感の様なものが満ち溢れて来ます。

 

「私が・・・をする」だと自分が何かやってやるのだという驕りが見えるような気がします。

「私が・・・をさせて頂いている」となれば、共感が得られます。

 

「自分らしさ」というものは主張するのではなく、自然と何にかによって「現しめられる」ことのようです。
そうなった時、自分への拘りがなくなってくるのかも知れません。

 

先ず自分が何に拘っているのかを真剣に考え見つめてみたいと思っています。

 

私は若くして企業を起こし、人並み以上の生活をして全てに満たされた時がありました。

その頃を振り返ってみると、決して幸せであったとは思えないのです。

 

周りからは羨望の目で見られていました。私の中にも言い知れぬ優越感のようなものを感じていた
のだと思います。だが私は満たされては居ませんでした。


本当にこれで良いのだろうか?という自分に対する疑問がありました。

本当にやりたいことが出来ているのだろうか?

本当に今やっていることに満足していいのだろうか?

本当に何か人に役立っているのか? ・・・ 

という疑問です。

 

私の家は代々のクリスチャンでした。幼児洗礼も受け、ずっとそう云う環境に育ち常にキリストの僕(しもべ)としてあることが求められていました。

そうなのです。求められていたのです。内心それに対する反発もありました。

何故、見えぬ神に対して罪を感じなくてはならないのか?

両親、兄弟、全てのクリスチャンが本当に神を畏れ、神に感謝し神と共に在ることを、信じているのだろうかと言う疑問。

その様な事が、自分の今の生き方に疑問を投げかけていたのだと思います。

 

今尚,私はその迷いの中にあるような気もします。何かに拘っているのです。

今までの自分の生き方に!今の自分の存在に!今自分が行っている全ての行為に! 

いやそうじゃない!今こういうことを言っている自分に拘っているのではないだろうか?

 

拘らなければ、自由なのに!
分かっていながら、その拘りから抜けきれない自分は一体何者なのだろう。

もともと人は自由であったはずです。だから拘ることが無かったのだと思います。

 

もっと、ゆったりとしていていいじゃないですか!

「今ここ」にいるだけでいいじゃないですか!

 

私が囚われているのは、全て妄想だと思うのです。

 

妄想が妄想だと分かれば、妄想は無くなってしまいます。

消えていくのです。妄想が消えれば、あえて自分に拘ることもなくなりますね。

何事も分け隔てることなく、自分が全てと共に生きていることを実感できます。

この感覚って素晴らしいと思います。楽しいと思います。

 

今ここをあるがままに味わい続けることは、凄く気持ち良いことと思います。

 

人間性回復運動はこの拘りを捨て去り、今ここに生きる自分を率直に見つめてみようと言う機会なのです。


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    『人生は楽しいもの』 24.9.28

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私は自然との触れ合いが大好きです。

特に波高く荒れ狂っている海岸に立って、遠く眺めている時が最高に好きです。

その時ほど生きていることを強く感じることはありません。

茨城県の大洗海岸で入水自殺を図ろうとした時のことを想う時程、今生きている

ことに無限の喜びを強く感じます。

湘南の海岸で今の自分を振り返り、あれから73年生きて来て人生という荒波に
もまれて生きていることが、無性に苦しみと喜びが混じり合って思い出されます。

人生を山頂に立って眺めるより、荒れ狂う波間を眺めている時ほど人生を実感

出来るような気が致します。

この達成感・満足感は、自分の思いに向かって突き進んでいる今の自分に対する

喜びなのかもしれません。それが人によっては夢と言われるかもしれません。

夢なら夢で、その夢に向かって突き進むだけです。どんなに時間がかかっても、

その達成を見届けてくれるのは自分だけなのですから。

その達成は決して容易いものではないと思います。ですから常にチャレンジが
必要なのだと思います。

自分でチャレンジしているのですから、その一つひとつがどんなに困難な事で

も楽しくなるのです。

人生とは苦しいものじゃないと思います。若し苦しいと思っているならそれは

自分自身が選ぶ自分の意思で生きていないからではないでしょうか。

苦しみから脱するには先ず、発想を変えることです。人のためではなく、自分

が選んだ自分の人生を、自分が謳歌するのだと言う発想こそ大切です。

そこにはハンディーも無く、自分一人の道です。
そこを自分なりに精一杯生きているのですから、それら全てが自分の個性として
生きてくるのだと思います。

誰も人生に於いて、いろいろな選択を迫られます。
上の学校に進もうとする時、仕事を選ぶ時、結婚する時、その時々に於いて起き
ることの結果には、自分自身が責任を負わなくてはなりません。
自分が選択した結果なのですから。

その選択に於いて大切なのは自らの価値観です。
身の回りにはいろいろと興味、関心のある事が限りない程あるものです。
それら全てを手に入れようとしても無理です。

自分にとって何が最優先する事なのかは、自分の価値観に沿うものであるかどう

かです。そのためには自分の価値観を明確にすることです。
あなたの価値観はと問われて、「はい、これ・これです」とすぐ答えられる人は
少ないと思います。

それは自分が常に何に重きを置いているかを意識していないからだと思います。

何事でもそうですが、他から与えられることのみ望んでいたらそこに主体的な

自分は存在しません。その様な人に限って自分は不幸だとか、生まれた環境が

悪いのだと他に責任をかぶせます。

与えられるのを待つのではなく、自分の幸せは自分でつかんでいくものです。

幸せとは自分にとって決してプラスにはならないと思われる様な中にも存在する

のです。それを自分ら見つけ出して行くのです。

人生とは畑の様なものです。自分で何の種をまくか、どの様に育てるかは自分の
意思です。常に耕し自分の成長を自分で確認していくことなのです。


 

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  『今が私の人生』24.9.21

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回顧録を書かないかと言う話がありました。それもそうだな、もうそんなに長くない人生だろうし、一つのけじめかなと言う思いがフット頭をかすめました。

 

しかし日々を精一杯生きて来た私にとって、過去は全て自らの回顧録なのだと思うと、書く必要もないなと、書くのは止めました。過去が有って今があるのだと言うことも分かります。
しかし、過去は過去であり今の私を見て欲しいと思うのです。

 

私は、いつもチャレンジを繰り返してきました。無理だよと言われたことにも、ならやってみようと思い、精いっぱい背伸びをして頑張ってきました。すると無理だと言われたことも、やり遂げることが出来たのです。

そうすることによって自信が付き、今まで考えもしなかったことが出来て視野も広がって来たように感じました。

 

91歳になった今も、いろんなことにチャレンジしています。
87歳になる妻にも、今更何でそんなにやるの?もう少しゆっくりしたらどうなの!と再三言われています。

 

しかし私は生きている限り、自分の人生に、精いっぱいチャレンジしたいのです。
その事によって、新たな気づきもあり新たな発見もあると思うのです。

 

私の91年の人生は、決して平坦な道のりではありませんでした。乗り越えなくちゃならない、苦難や障害が壁になり、一歩を踏み出すことにもう駄目かと思うことが再三でした。
しかしその度に私の負けん気が、くそ!と尻を叩くのでした。
それが私に更なる力を与えてくれたように思います。
人間の成長は、血のにじむようなチャレンジも必要な時もあるものだと思って居ます。

私は私の生き方が最高だとか、最低だと言うことも思うことも有りません。
自分が生きると言うことは、生きとし生きるものとしての自分の在り方だと思っています。

人間の生きざまには、決して「斯くあるべき」とか言うものは無いと思います。
もしあるとするならば、あるがままの自然な自分を生きる力を得ることだと思っています。


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    『一番大切なもの』24.9.14

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あなたにとって一番大切なものはなんですかと問われました。
身の回りにあるものは皆大切な物ばかりと思って居ましたが、そう問われますと、はたと考えさせられました。

いろいろと考えて居りましたが私にとって一番大切なのは「もの」ではなく、多くの人との繫がりの様な気がして来ました。
わたしがこの歳(91歳)になるまで、何とか自分らしく生きて来られたのは、多くの諸先輩のお力添えであったような気がします。

 

よく、あなたは素晴らしい人脈をお持ちですねと言われます。
どうしてこんな凄い人脈をつくられたのですか?と問われる事が有ります。

そう問われた時、又ハタと困ってしまうのです。


私は決して凄いとも何とも思って居ないからです。一人ひとりの方が私にとっては大切な人だからです。それだけに、いつも一人ひとりの方を思い出したり、気になったりします。

メールを送信したりお電話をかけて、ご無事で居られるとホッとして有難うございますと言ってしまいます。

 

私は人を評価し、名刺入れにしまい込んでしまうようなことは致しません。

 

人に対する時、ネガティブな言葉ほど相手を傷つけることはございません。
例え言っている本人が決してそう言う意味で言ったのではなくても、相手は傷つくものです。

逆にポジティブな言葉は、こちらが意識していなくても相手はこちらを気持ちよく受け入れて下さっているのです。

 

私は多くの方からいつも素敵なエネルギーをいっぱい頂いています。

 

それは私が接する時、皆さんがポジティブな気持ちで接して下さるからだと思います。

こちらがポジティブに接して行くと、相手もその様にポジティブに返して下さるのですね。 

言葉は、不思議と周りにいろいろな影響を与えるものです。
何気なく使った言葉が相手を無気力にしたり、勇気付けたりするものなのですね。

 

私自身、中学卒業時の先生から頂いた“真実なるもの「愛」”の言葉が、私の価値観の基本になっている様ですし、マザーテレサの「あなたは、あなたであればいいのです」一言が私の生き方を変えてしまいました。

それだけに言葉を使う場合は、常に積極的ポジティブな言葉を使わなくてはと思って居ます。
お互いが、相手を想い相手を勇気づけようとする時、相手と喜ぶ気持が通じ合えるからです。

言葉ほど、自分の人生を方向付け、幸せに向かわせるものはないと思っています。

 

先ほど中学卒業時の先生の言葉が、私の価値観の基本になっていると申しましたが、言葉は人生の価値を高めるものでもあると言えると思います。

 

私がこの80数年間、人に対して愛情を持って接して来れたことは、私の中学時代の諸先生が私に対して常に思いやりと愛情を持って接して呉れたこと (戦後の引揚者で、どん底の生活の中で一生懸命負けまいとして頑張っていた私に対する) が私のあり方を創り上げてくれたのだと思って居ます。

 

相手が愛情を持って、こちらの気持ちを察して下さっていると、相手から言われる前に相手の気持ちに応えたくなるものです。それを喜んで頂けるとこちらも嬉しくなるものです。


言葉は、こちらの気持ちから発するものだけではなく、相手の気持ちからも発信されるものなのですね。有難うという感謝の気持ちは、有難うという感謝の気持ちでの受け入れが伴うものなのです。そうすることによって自分自身の生きる価値を高めているのです。

 

即ち人の言葉は、その人の価値を高めるものだとも言えると思います


最近言葉が非常に乱れて居ます。このことは人の価値観が乱れているからだと思います。
人を罵ったり果ては暴力によって相手を傷つけたり、死に至らせる様な事も起きているのです。

このことは、人の人として生きる個々人の想いや行いが、個々人の価値観の意識の低さから生じて来ているのではないかと思います 


◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◇     『やる気を大きく花咲かせる』24.9.7

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最近、いろんな会合で話をしていますと、必ずと言っていいほど、「最近の人たちは、やる気
が無いですね」とか、「何を考えているのか分からない」等と耳にします。

仕事をしている人だけではなく、巷でもよく最近の人は“やる気が無いね”というのが風潮に
なっているようにさえ思われます。

 

確かに私の少年時代、学生時代、社会人になりたての時代、そうして今日までと比べると、
どうしたんだろうと思うことばかりです。

 

振り返ってみますと、太平洋戦争時代は戦争に勝たなくてはと、月月火水木金金でがむしゃ

らに学徒動員での仕事、僅かばかりの時間での勉強も必死でやっておりました。

 

戦後は、焼け野原となった国土で、食べ物にも事欠いた三等国から世界に認められる一等
国にならなくてはとか、何とかして世間並みの生活をしたいと、これまたがむしゃらに働いて
きました。

 

当時の日本は、物は不足し、貧しいことは当たり前のような状態でした。

何とかして、かつてのように、世界の中で日本という国を認めさせたいという目標がありました。

 

皆がその目標に向かって一生懸命だったのだと思います。

何とかして現状から脱却したいという欲求がありました。

このままではいけないという問題意識もありました。

また世界の日本にしようという、国民全体が望む目標がありました。

 

そのことを、身をもって体験してきた中高齢者にとっては、確かに今の人たちにそのような
一生懸命に働く姿や、がむしゃらな面を見ることが出来ないのも事実だと思います。

 

今は何から何まで欲しいものは溢れ、飽食の時代でひもじい思いをすることも無いのです
から、こんなに幸せなことはないと思うんです。

 

しかし、そこで私たちが昔持っていた何かが、今の人たちになくなっているように思うのです。

それは、高次の目標だと思います。

 

人は誰でも、何かしらの欲求はあるはずです。

お腹を満たしたい!あれを買いたい!

あの人に好かれたい!等など、誰にでもその時々に何らかの欲求はあるはずです。

ただそれらは、満たされたとき自分を一歩成長させるものではないかもしれません。

 

人は欲求のみで生きているのではないと思います。

 

いろいろな欲求がありますが、それらは次元の高い目標によって支えられている欲求で
なくては、生きる糧とは、ならないのではないでしょうか。

 

今多くの方々が、やる気を失っているのは、この高次元の目標を失っているからではない
でしょうか。

 

私たちは人を愛し、人に愛され、その人と共に在ることに喜びを感じます。

 

それは、最愛の人と一緒に在るという心からの共感、暖かい家族と一緒に過ごしていると
いう幸福感、信頼しあえる仲間と一緒に居るという存在感、この地域に住んでいられると
いう安心感、そしてこの国の国民であるという誇りなどだと思います。

 

私たちは物質的な充足感の中で、もっとも大切な精神的な欲求を見失ってしまい、自分
が生きる上での高次元の目標を求めなくなっているのではないでしょうか。


その事が、今自分のするべきことに気づかず、“やる気”を失っている原因となっているの

ではないでしょうか。

 

私たちは、もっと自分の周りのことに、自分の周りの人に関心を持って接しましょう。

 

そうすることによって、今自分が周りの人たちにとって、必要な存在であることに気づける
はずです。今起きていることに自分も関わっているのだと気づき、自分の存在感を見出す
ことが出来るはずです。

 

誰一人、この世に求められていない人はいないのです。


皆この時代を支え、この国を支え、この世界を支える重要な存在なのです。

その事で、自分が“今ここに存在することの意義”を見出すことが出来るのです。

 

そこに自分の高次元の目標を見出し、自らの中に“やる気”という木を植えつけることが
出来るのではないでしょうか。

 

そうしてその木の種が、あなたの想いで芽を吹きあなたの温かい思いやりの中で育ち、
あなたの周囲全てへの積極的な関心の中で蕾をつけ勇気ある行動の中で花開いていく
のだと思います。

 

人間性回復運動は、他人との真剣なかかわりの中で自分がどれほど必要な存在であるか

を気づかされ、どれほど愛され、信頼されているかを体感しながら、自らのやる気を大きく

花開かせることなのです 


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 『気になる人』24.8.31

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夕食時に突然、気になる人って、どんな人のことを言うのかな?と家内が言い出しました。

どうしたの? 何か気になることでもあったの?と聞いたら、いや・・・特にないんだけど・・・

中途半端な返事でした。

 

それで、一般論になるけど、それはいろいろあるんじゃないかな、と返事をしておきました

 

何か浮かない顔をしているので・・・ 何がそんなに気になるの?・・・聞き返しました 

 

それはその時々その人によって違うんじゃない? 

 

そんな事を言いたいんじゃないの・・・ と何だか急にいつもの家内と違った口調で言い寄ってきました。

 

昨夜のNさんの事に関して、何か言いたいの? それもあるかもしれないけど、ちょっと違うのよね。

貴方は気になる人ってあるの? と急に話の展開が変わってきました。

 

人に対する関心について話したいのだなと思い、私もその話に対応しだしました。

 

貴女の言葉からの響きとして、“気になる人” というと、何となくネガティブな人に聞こえるけど、そうなの?

 

・・・ そうね。そうじゃないの?

 

そうね、私にとっては “気になる人” というと関心の向けられた人という意味になるけどなあ。

 

うん?そうかな? じゃ貴方にとって、私は気になる人なの? と迫られました。

 

そうね。気になる人という以上に、気にしている人かな?

 

それどういう意味?・・・

 

常に関心を持って接している人だよね。ある意味においては、私は常に自分の周りにいる人へ積極的な関心を持っているね。だから皆気になる人だよ! 

 

そんなの、言い逃れよ!

もっともらしく聞こえるけど、誰にでも関心を持つなんてできっこないじゃない

 

どうして? すれ違ったその瞬間の人にも、どうしたのかな?と気になるな!

 

何か良いことがあったんだな、楽しそうだな・・・とか、感じることがあるだろう。

それだって、その時その人に関心が向いているから感じるのではないかな

 

すれ違った人に・・・そんなに感じていたら疲れてしまうわ。そんなこと貴方にはあるの?

 

あるよ、いつもそうだよ。だからバスを待っている時も先に来ている人、後から来た人にも、声を掛けるでしょう。

あれだって “今日もご一緒ですね、お元気で良かったですね”という気持ちから、声を掛けるのじゃないかな。

 

私たちは自分の周りの起きていること全てに、関心を持って関わっていくことが出来ると思うけど?

 

人に対しても、周りで起きているいろいろな出来事に対しても、森羅万象に対して積極的に関わっていく時、自分の存在を感じることが出来るはずです。

 

この自分が、今此処にあってそれらのことに関わっていることを想うとき、私たちはそれらのことを他人事としてみることが出来なくなります

 

他人事としてみている限り、そのことを本質的に理解することは出来ないのではないでしょうか。

 

特に人に関わっていく時、第三者的にみている限り、その人との間に共感的に理解することなど出来ないと思います。

 

人を理解するということは、その人がどういう人であるかということより、今のその人の気持ちをわかってあげることではないでしょうか。

 

人を第三者的にみている限り、その人に対する心からの理解など出来ず、その人を評価するようになってしまうのではないでしょうか。

 

人は、他人から評価されることを余り好みません。そうしてその評価が自画像に合っていない時、その人を逆に評価してしまい、お互いを傷つけあうこともままあるものです。

 

その人をそのまま受け入れ合えた時、私たちは人間同士として心から共感的に理解できたと思うんです。その時、計り知れない愛情を感じることが出来ます。

 

人に対して関心を持って接するということは、常に人間同士としての深い愛情を持って接するということだと思います。

 

最近、いろいろと心を痛ませる事件が起きております。その根幹にあるのは、人に対する無関心であったり、人としての愛情の欠如から来ているのではないでしょうか。

 

人間性回復運動は、私たちが心から人を信じ愛情を持って関り合える、本当の人間愛を体得する場です。

 

そのことが家庭に、職場に、世界に人間としての生き方を提唱することだと思います。


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 『感性と思いやり』24.8.24

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最近起きているいろんな事件を見て居ましたら、事件そのものよりも、多くの事件が起きて来る根幹にある、他人に対する“思いやりの心”が欠けているのを問題にしなければならない様な気がして来ました。

“思いやりの心”と一言に言いますが、・・・ 確かに他者に対する思いやりの心があれば、相手の人に対して、その人の人生を大切にしたくなります。
その人が人間として本当に幸せに生きてくれることを望むようになるのではないでしょうか。

どんな行き違いがあって反発し合っている二人であっても、“思いやりの心”があれば真剣に向かい合って話し合えば、相手に対する反発心も、消え去っていくのではないでしょうか。

そうすることによって、二人の生き方の上に共通に大切なものが、見えて来るのではないでしょうか。

それは物質的なものではなく、また自分だけが満たされるようなものでもなく、相手と共有できる、お互いの欲求を満足させてくれるものだと思います。

相手を無視して自分だけの充実感を、追い求めることが出来るのでしょうか?

お金だけで、得られるものは沢山あります。

それが、その時の自分の欲望を満たせるものであることを、決して否定はいたしません。

ただそれが満たされた時、次の欲求がその人を襲ってくることでしょう。

そしてその前に得たものが、決して自分の心まで充たしてくれてはいなかったことに、愕然とするものです。

人に対する思いやりは、どこから生まれてくるのかを考ますと、また別の視点が見えて来ます。

私の今日までを振り返ってみますと、何か人に言われて、ああ そうかという具合で、決して敏感に人の気持ちに、反応できる方ではありませんでした。
どちらかというと、鈍感な方ではなかったかと思います。

社員が疲れきっているのに、そのことに気付かず次の仕事を急がせたり、風邪で寒がって
いる人がいるのに、暑いなといって暖房を切ってしまったり常に自分中心に動いていたようです。

そのため、いろいろと中傷非難を受けることもありました。

そうしてそういう時、いつも他人に問題があるのだと思っていました。

ある時家内から、今庭にどのような花が咲いているかと、尋ねられことがありました。

その時、何一つ答えられませんでした。

30年ほど前のことです。私は殆ど、庭に関心が無かったのです。

それから私は、常に意識して、ものの動きや人の気持ちにも関心を持って気を配るように努めました。
その結果、いろいろなことに、敏感に感じられるような感性が高められてきたように思います。

その結果、私は人を思いやるには、感性を高めることが大切なのだと気づきました。

感性を高めると、今自分がやっていることが、今本当に必要なことなのだろうかとか、多くの人に喜んでいただけること何だろうか、という判断が出来るようになりました。

人を思いやり、心から接していくことが、何となく胡散臭いと思われたりする今日です。

私たちは、本来の人間の持っている感性を研ぎ澄まし、真剣に人間として生きることを考え
行動しなくてはならないと思います。

人間性回復運動は、私たちがお互いに対して積極的な関心を持ち合い、感性を高め心から
思いやりのある人間関係を築き上げて行こうと言う運動なのです。


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『事実を事実として受け入れる』24.8.17

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いつになったら涼しくなってくるのでしょうね?嫌になっちゃいますね!

と今朝の家内の挨拶でした。この異状な猛暑は91歳のこの身に堪えるのも事実です。

 

この時期、良く家内に言われることは、暑いからって夜に布団を全く着ないでいると、夏風邪を引くので気を付けてね!でした。

この連日の猛暑では、家内の口から出て来る言葉も変わってしまうものだとニヤッとしてしまう。

 

91年も生きて来ると、いろんなことが起きて来るものですね。

自分ではどうすることも出来ないことも有るものです。

だからといってそのことを人の所為にしたところでどうにもなりません。

自らそのことに、対応し受け容れていかなければなりません。

人生って面白いものですね。

いついかなる時でも、現状を受け容れなければならないからです。

それは現状に不満を持つのではなく、現状を楽しんでいることだからです。

足(た)ることを知ることは、大切なことだと思います。

いつも現状に満足せず、不満ばっかり言っていると今の幸せを見落としてしまうものです。
人生でもビジネスでも、その過程ではいろんなことが起きて来るものです。

 

浮き沈みの多いのが人生だと思います。

自分なりに充実した人生でありたいなら、運に任せるのではなく、自分から創り上げて

行けばいいのです。

 

そのためには、現状に不満ばかり抱えるのではなく、現状こうして居られることに感謝の

気持ちで「有難う」と言えることが大切なのです。

即ち不平満ではなく「足るを知る」という自らの気持ちが大切なのだと思います。

 

他人と比較したり、周りを気にしたりして、現状の自分を見ずにあれこれ考えていると、

いつしか不平不満ばかりが出て来るものです。

自らの 「足るを知る」 という気持ちを見失ってしまうものです。

 

何事も比較をしないことです。今こうある事が絶対なのです。

学校や会社生活においては、どちらかと言うと相対評価をされて来た様に思います。

そこには必ず不満が生じて来たものです。


この世は、絶対の世界なのです。現状に不満を言い、期待する世界を夢見ても何も

変わったりしません。

現状をそのまま受容し、そこに生きるために何が必要で、何を変えたら良いかを明確

にすることです。

そうした時、初めてどのように行動したら良いかが解ってくるものです。

其れを行動に移す力が、自分が生きていく力なのです。

現状の全てを受容し、そこに自分が存在することに感謝し今を精いっぱい生きること

こそ大切なのではないでしょうか。

 

現在自分が関わっている事を批判し、関わっている人を避けて見たところで何も変わり

ません。自分自身に対する不満だけが残り、ネガティブな思いしか生じて来ないのでは

ないでしょうか。

 

何で俺ってこんなに不幸なのだろう?何でこんなに運が悪いのだろう?と自分を責めて

みたところで、何が変わっていくことでしょう。そんな自分とはキッパリと縁を切りましょう。

 

私たちは常に自分の人生の当事者であり、主役なのです。

第三者的に自分を見るのではなく、自分自身の人生として見るのです。

本当に自分を活かしきるためには、自分自身を率直に受容することです。

そのためには自分がどんな自分であるかを知るために素直に鏡に映してみることです。

その鏡は曇ってなく、歪も無く真っ新な鏡でなくてはなりません。(先入観を持たない)

 

鏡に映っていた自分をあるがままに受け容れることです。

それが曇って居たり、歪みだらけであってもそれを否定せず、そのまま受け容れることです。

事実を事実として認め、良い悪い、好き嫌いではなく、あるがままの自分を受容できる人でなくてはなりません。



人間性回復運動は、周りの人の足る、足らないではなく、全てをあるがままに受容し、自らもあるがままの自分を生き抜くことなのです。



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  『自分の時間の質を高める』24.8.10

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最近、何かといろいろなことを手掛け、結果やりかけていたことが思うように進まず先延ばしにしていることがあります。先延ばして今まで何をやっていたのだと、無駄なことをやっていたことに驚かされます。

拙いなと思いやり始めますと、ちょっと延ばした事から、思いがけない新たな気づきがあったりすることもあります。それ程無意識に無駄なことに時間を費やしていたのですね。

延ばしていたのが僅か半日のことですが、その半日の時間の質はどうであったのかと思うと、あれこれと考えていて別にたいしたこともせず、何の成果の無い時間だった様です。

その半日の内に、大きな成果を上げた方は大勢居ただろうにと、自分に呆れてしまいます。

時は金なりとも言いますが、誰にとっても同じ24時間を、どれほど効果的に使うかによって、その人の人生に大きな開きが出来てしまうものです。

世界万人にとって、平等であるはずの時間を如何に不平等にしてしまって居るだろうか!

その時間を、如何に質的に向上させるかが、人にとって大切なのではないでしょうか。

私は第2次世界大戦後、蒙彊より引き揚げて来ました。小学校6年生の下期の時でした。

それからの苦しい生活は、私から『睡眠』を奪っていました。

せいぜい4時間ほどしか眠る時間は有りませんでした。

朝3時頃には出掛け牛乳絞りを手伝い、その配達をしていました。それが済むと新聞配達

をしてから学校に行っていました。

学校から帰ると、小学校の後輩に勉強のお手伝いし、それを済ませてから父の仕事だった

電気工事の手伝いと、休む暇も有りませんでした。

その所為で学業に遅れるのが嫌で、徹底的に計画的に時間を使いました。

牛乳を絞る時は暗記ことをして、新聞配達で走っている時は、英単語覚えに最も集中出来

ました。そうすると成績も上がり、益々勉強する意欲も湧いてきたものです。

時間がないと嘆いている人をみると、それ程忙しく働き、どんな成果を上げていたのかと思うと同時に、無駄なことに自分の命を削っていたのではないかと気懸りになりました。

人の一生とは、限られた時間を精いっぱい生きることが、私たち人間だと思うのです。

人生の目的は何であるかと問われても、私にはわかりません。

何故なら正解があるとは思われないからです。

ただ、「自分を生かし切ろう」と言う目的を持っていて、今年はあれをあそこまでやってみようという目標を立てて、達成に取り組んで来たが、現状どうだろうかと振り返って見ました。

私は人生を非常に楽観的に見ていて、がむしゃらに必死になって取り組もうとはせず、必ず実践すれば達成できると、自分の決めた計画通りに進めていました。


もし達成できなかったらと、悲観的に見て居ると、達成出来ないことの方が多いようです。

悲観的に見ていると、不安に付き纏われ集中することが難しくなるのではないかと思います。

結果はいつも不満であって、今後どうなるのかと、不安になるのではないでしょうか。

私は『反逆児は常に逆境にあり』と言いながら、その逆境を突き破ることを楽しんで来ました。
中々達成できない状況は逆境にあったのだと思います。

ただ私はどの様な逆境も、必ず抜け出せるものだと信じ切って楽しんで取り組んで居ました。

逆境を抜け出すには、がむしゃらに突き進むと疲れてくたくたになってしまいます。

そのためにも夢が必要なのです。その夢は悲観的ではなく、達成出来たという楽しい夢なのです。達成出来たときの喜びが、更に脳を刺激し活性化してくれるのです。


常にそう思って居たので、達成できるという楽観的な生き方が自然と身に付いて来たのです。


 

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     『迷いこそ成長への第一歩』24.8.3

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人ってどうしてこんなに迷うのでしょうか???

 

91歳になった私も何だかいつも迷いがあるようです。

こうして今日まで元気に生きて来たではないか!何をそんなに迷っているのだと、自問自答をしている自分が居るのです。

 

迷いなく、自分で意思決定し堂々とそうやって来たではないか!

今更何を迷っているのだ・・・? と自分に問うている私が居るのです。

 

今実践したことにすら、その瞬間にハッとっこれで良かったのかと迷いの影が横切るのです。

そうして、今更何を迷っているのだと、自分を𠮟り付けている自分が居るのも事実です。

 

何にかにふれ、最近それがどうにもしようがなくなってきたのです。

古臭いと言われるでしょうが、「至誠一貫・堅忍力行」 と、そんな自分を誇らしく思って来た自分に迷いが生じてきたのです。

 

周りに躊躇することなく、自分自身の人生だと、自分の思いで、自分の意思で進んで来ました。

そんな私に、人生が新しい意味を持ち始めて来たのでしょうか。

何か今までと違ったエネルギーを感じるのです。

 

小人は取るに足らないことに迷い、大人は次への旺盛な活力を注ぎこむ、ただそれだけの

違いだ!と言われ、「私は小人ではない!大いに社会に貢献する大人を目指して生きて来ているのだ。」と自分に自信と誇りを持って生きて来ていたのです。

 

「私にはそんなことは出来ません」「私にはそんな能力はありません」「私には無理な話です」等と言う人に出会うと、あなたは自分の力を過小評価していませんか?とその人に対応して居ました。

 

これ位は出来るだろうけど、そこまではちょっと無理です。という人は、嘘ではなく、正直な人だと思います。

その位なら出来るだろうと思う人は、間違いなくそれくらいは熟せるのです。

そんなものはその人の100%の力ではないのです。

 

誰だって全てに自信を持っている人って居ないと思います。

今までやってきたことに自信を持って出来ますと言えるのは当然のことです。

しかしそれは自信とは言えないと思います。

 

自信とは確信がないけどやってみることによって生まれてくるものです。

 

もしあなたが出来ないと思うなら、すでにその時、あなたの中に出来ない理由が形成されていくのです。必要なのは出来ない理由ではなく、達成しようとする自分の意思と信念です。

そこには必ず、達成への知恵と活力が生じて来ます。

 

私は驕りと見えるかもしれませんが、今まで自分がうまくやったことからから学ぼうとするより、うまく出来なかったとき、何が問題になったのか、何が欠けていたのかから学ぶことの方が多いと思い

ます。そうすることによって成功への道がはっきり見えて来ます。

 

今までやってきたことも大切ですが、それは今までの延長に過ぎません。

未来につなげていくためには、今まで自分がしなかったこと、違うことを求めそれらを生かし切った時、未来が見えてくるのだと思います。

 

今こうしたらどうだろうと感じたとき、きっとそこに何らかの閃きがあったからだと思います。

ひらめきは天の賜りものです。その時それを受け入れた時大いなる知恵として生かされるのです。

閃きは躊躇していると消えてしまいます。迷いこそ成長の足を引っ張るのです。躊躇を打ち破るエネルギーこそ成長のカギであり成功への一歩なのです。 

  


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 『幸せって何なんでしょう』24.7.27

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私はいつも俺って幸せだなと思いながら生きてきました。

 

その幸せって何だったのだろうと、此処のところ想い煩っている自分を見るのです。

決して食べて行けないような状態でもなく、特別体調が悪いわけでもありません。

 

だが変なのです。今までのように素直に人を見ていない自分が居るのです。

何かに拘っています。お金でしょうか?

唸るようにお金があるわけではありませんが、今それ程必要ともしていません。

地位でしょうか、そんなものには全く興味を感じません。

名誉でしょうか。それも今の私にとって関心のあるものではありません。

 

ヘレン・ケラーの言っているように『一番大事なことは、どんな環境が必要かと

いうことではなく、どんな考えで毎日生活しているか、どんな理想を追い求めて

いるか、ということなのです。一言でいえば、その人の人柄の問題なのです。

次のアラビアの格言は素晴らしい心理を語っています。

 

「汝の今いる所が汝の世界である」。』そうなんですね。

 

私は今まで求め続けていた理想とするものを失ったのかもしれません。

いやその理想とするものが、自分一人の夢に過ぎなかった様な気がするのです。

自分で想っているだけでは単なる「夢」であって「目標」には成っていなかった

のかも知れません。

 

私の心の師である土光敏夫さんに「一日一生なのです。今日一日に全力を尽くす。

朝新しい生命が生まれて、夜死んでいく。一日一生の決心で生き抜くことです。」

と言われた事があります。

 

私はこうしてメルマガを書きながら、今気付かされました。

夢を実現するために、目標を達成するために、「今」を見失っていました。

そう一日一生なのですね。

 

今を精いっぱい生きてこそ、目標は達成され夢も現実として輝いてくるのですね。


 

 

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   『自分を生きる』24.7.20

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昨日91歳の誕生日を迎え、改めて生きるということを真剣に考えました。

常々思って居ることを書いてみたいと思いました。

5時30分、毎朝この時間になると不思議と目が覚めます。

永い年月の間に習慣となったのでしょう。

目覚めると、今日も元気で新しい日を迎えたことを感謝し,今日も一日素敵な一日で

あります様にと朝の祈りの時間を持ちます。

この感謝の気持ちがある限り、私は生かされているのだと喜びでいっぱいになります。

この感謝の気持ちが無くなった時私は自分の存在価値がなくなる様な気がするのです。

自分の存在価値がなくなった時人は生存しているだけで生きている価値がないのです。

ですから「生きていない」と言えるのではないでしょうか。

私は生きると言うことを考えますと、どうしても「死」と言うことに考えが至って

しまいます。私達は「死」と言うことを避けることはできません。

そのことは厳然とした事実ですが、私達は精いっぱい生きようとする最大の矛盾の中

に生きているのです。

死ぬと言う事実があっても、折角生きているのですから、精いっぱい生きなければ損

ではないかと思います。

私の長い間の信頼する友人に後藤美香さんと言われる方が居ます。

その美香さんが「人生そう長いものではないし、いまやってみたいと思ったことを

素直にやってみる。」と言われて居ました。

何と素敵なご発言でしょう!今自分が生きようとするなら、徒に余計なことに気を

煩わすことなく、自分自身を生かし切ることが第一だと思います。

私の91年間を振り返ってみますと決して順風満帆だったとは言えません。

だが嫌なこととか、苦しかったこと等もいつの間にか奇麗な思い出として残っている

のです。人は、その様に過去の思い出を奇麗なものにしてしまうのです。

それって、将来に対する希望を持って生きているから、綺麗な将来が見えて来るのだ

と思います。そこに生きて行く喜びと、感謝の気持ちが心を満たしてくれるのです。

儒学者の伊藤仁斎は「仁者は常に人の是を見る。不仁者は常に人の非を見る」と言って

居られます。

私達は得てして、人の短所、欠点を見てその人を評価していることが多いのではない

でしょうか。それでは人から学ぶことがなくなってしまいます。

私達は他者との関りから、学び成長して行けるのではないでしょうか。

そのためには、他者の欠点に目を向けるのではなく、長所に目を向けなくてはならない

と思います。

人の成長は、他者から与えられることの方が多いように思います。

それは他者から得られる情報が、成長を促しているのです。

それはまた与えることによって、得られるものではないでしょうか。

情報でも、独り占めにしていたのでは広がりません。同じ様に全てを与え合うことに

よって、得ることも多いのです。

私は多くの方々にいろいろとお世話になり、本当に幸せだと思っています、

この幸せを、分かち合うことが大切だと思っています。

そうする事によって、更に自分も幸せになるのだと思います。

自分一人で幸せを独占する様な人は、本当の幸せを知らない人だと思います。




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    『自ら精いっぱいやって自信を取り戻そう』24.7.13

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自ら為すべきこともせず、運任せだということでは自分の人生を他人任せと言う
ことでしょう。

自分の選んだ人生だから、精いっぱいやってその結果がどうであろうと、自ら

の選択で得た結果です。それを運命と片付けてはおかしなことです。

 

結果がどうであるかを気にする様では、自分らしく生きていないことになって

しまいます。

 

私は今自分が出来ることは何事であれ、精いっぱい一生懸命その事に集中する

ようにしています。

 

そうすることによって、今やっていることが自分にとって最高の喜びを得、最も

やりがいを感じられるのです。

 

その事がどんなに小さく観えようと、またどんなに遠大なことであるように思え

ようと、それがどんなに問題と思われようとも、何だかその為に自分が存在して

いるのだと感じるのです。

 

その様に自ら思い、行動しているといろんな方に出会います。

またいろんな方々が、集まって来てくれます。

その一つひとつが、素晴らしい出会いとなるのです。

その一人ひとりが、私が持っていない素晴らしいものを持って居られます。

それらの方々が、私に無い知恵や力を惜しみなく与えて下さいます。

 

私にも自分では意識しない長所や短所があります。

多くの人は他人の短所、欠点を気にしてしまい、その人の長所を見ようと

しなくなります。そうして多くの人を失ってしまうようです。

 

この世に完璧な人なんて、居るはずがありません。私自身も欠点だらけです。

その欠点を認め、あるがままの私を受け容れてくれる人が周りに居てくれる

のだと思うと、ただただ感謝の気持ちしか起きて来ません。

私がそう思って接している限り、相手も私をその様に見て下さることでしょう。

 

完璧でない人間同士が、精いっぱい生きようとしているのですから、自分一人

で何でもしなければならないと思うより、皆の知恵と力で協力して頂く方が余程

素晴らしいものを、成し遂げられるのではないでしょうか。

 

人の力を頂いて行動している時、えっ!そんなことがあるんだ!

そんなこと出来るんだ!凄いなあと感動させられることがしばしばあるものです。

 

自分一人でやっていると、やっていること自体にマンネリ化してしまい、新たな

気付きもなく、当然なこととして流して何ら感動する事も無くなるのです。

 

私たちは日常の生活の中で感動する事によって、更に大きな気付きがあり、新た

な進歩を得ることが出来るのです。

 

日々の生活の中に感動を失ったら、今やっていることにさえ意義を感じなく

なってしまいます。

 

そうなった時、個人も、組織も、何ら期待されることも無く、ただ存在している

だけに過ぎないものになってしまうのです。

最近感動することが無くなった人が増えて来ていると聞きますが、それはその人

が自らが、その行為に目的を見失って居るからではないでしょうか!

 

自分が何のために存在するのか、そのために自分は何を行っているのか、

 

一緒に生きようとする周りの人に、関心─愛情を持って関わっているならきっと

自分の存在に大きな喜びと感動を感じることが出来るはずです。

 

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 『今がスタート』24.7.6

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私にとって、今日がスタートを切る日です。

私たちは過去に生きているのではありません。

 

私は「今」が人生だと思っています。今とは、“今この瞬間”のことです。

即ちこの瞬間・瞬間が、今を生きている自分の人生なのです

今とは過去の連続と思いがちですが、それは違うのです。

極端な言い方かもしれませんが、今この一瞬が私の人生なのです。

今この瞬間・瞬間を精いっぱい生きてこそ、自分を生きていると言えるのです。

 

今の自分に正直に、あるがままに生きることが大切なのです。今この瞬間が人生の

スタートと思えば、何も悔いることも、悩むこともないのです。

 

また過ぎたことへの拘りも、苦しみもないのです。過去にどの様な憎しみ合っても、

今この瞬間に、その人との関係も、スタートを切ったのです。

最も信頼できる友ともいえるはずです。


相手を敵とするも、味方とするも自分自身の想い、生き方だと思います。

自分が不幸だ、不幸だと言っている人も見かけます。

その様な人って、抱きすぎる程大きなことのみを思い、そうでないから不幸だと

言っているように見えるのです。その人も、いま自分が生きていること自体が幸せだはないでしょうか。

幸せって、頭で思い描くものではなく、今自分自身を取り巻いているものだと

思います。何か遠いところにあるものじゃないと思います。今に感謝しましょう。

 

マザーテレサも言われていましたが、「私達はこの世では大きいことはできません。

小さなことを大きな愛でするだけです。」と私はその言葉をそのまま信じています。

 

何か世界を動かすような大きなこと、をしなくちゃならないなど考えることもない

のです。それがどのように小さなことと思えても、愛を持って関わっている限り、

素晴らしいことではありませんか。

今に生きるからどんなことにも愛を持って生きられるのだと思います。

 

今自分が出来ることを精一杯やり、そこに充実感を感じ、喜びを得周りに感謝する

事が出来れば最高に幸せだと思います。

それこそ自分を生かし切っていると言えると思います。

 

今日と言う日も、雨の日も、風の日も有ります。

いつも晴れ上がってばかりではありません。雨が降っていれば傘をさせばいいんです。

 

その時その時に自分があるのだと思えば、雨で嫌だなとか風が強くて嫌な一日になり

そうだなどと思い患うこともないのです。

過去に拘り、明日を思い煩うより、今自分に与えられているこの一瞬一瞬を精いっぱい

生きましょう。それが最高に幸せな生き方だと思います。

 

◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◇      『幸せを一人占めにしない』24.6.29

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私は中学生の時、担任の先生から「株」にについて学ぶ機会を得ました。

自分が買い入れた株がどんどん値が上がって行っていた時、適当なところで売り
に出すことが必要だということを学びました。

 

「高値を狙ってもっと騰がる、もっと騰がると自分がその値上がりによる利益を

全てを得ようと思ってはいけないよ。

他の人にも、利益を得られるチャンスを与えるように自分はここらでと、他人の
分を残すことが株取引の極意だよ」と言われました

 

私はそのことが、変に心に残っていました。

何事も、独り占めしないことが大切なのだと思うようになりました。

 

自分だけが、幸せになろうとすることはある時には他人を蹴落としている事にも

なっていやしないかと思うようになっていたのです。

 

自分が幸せになることは、トコトン自分のためだけに追求するのではなく、半分
は他人のために尽くそうと思って生きて行くことが大切なのだと思うようになって
きました。

 

稍々もすると、人って自分の幸せだけを追い求めて仕舞う傾向がある様な気がし
ます。自分の幸せのみに執着していると、他人が見えなくなってしまうようです。

自分が幸せだと思ってやっていることが、他人を苦しめたり嫌にさせていることが
有るかもしれません。

 

私は他人の幸せのために夢中になっているとき、そんな自分が凄く幸せだなと

感じる時があります。それこそ、自分も幸せなことだと思うような気がします。

 

ただ他人の幸せのためと思っていても、自分を無視したり犠牲にしていては

決して他人を幸せにもしていないし、他人のためにもなっていないと思います。

 

かって宙飛行士の毛利さんの話を聞いていたら、「宇宙と私達は一体なのですよ。

自分の国が汚染されてくると人間が作った境界はあるが、自然には境界線がない

のだから世界が汚染され、地球が汚染されてくるのです。
ということは宇宙が汚染されているのです。自分のことだけと思っていることが
皆宇宙とのつながりにあるのです」という様なことでした。

 

そう思うと、他人など存在しないのですね。世界中は一つなのです。

それをそれぞれの国に分けてみているために、いろんなことが起きて来ているよう

に思うのです。他人に対する誤解や憎しみ、他国との争い、世界不安等々。

 

みんな自分と一体なのだと思うとその様なことも解消してしまいます。

何事も自分がそのことを第三者的に見ていると、不安や怒り、不満や不平が生じて
くるのです。そのことが、自分の中のこととして感じていればもっと違った形と

して目に映ってくるのではないでしょうか。

 

人を第三者的に眺めていると嫌な奴だとか、憎しみなどを感じるのです。

本当に心から愛した人、その人は常にあなたの中に想いの中に体全体で感じられ

ませんか。そのこと自体が私は一体と思うのです。

 

私たちは、人を愛し、人を憎み、人を羨み、人に泣きます。
それは私達がその様にその人を感じるからです。そうして感じるのはその人では

なく自分自身なのです。

 

人を理解するということは、自分自身を知るということであり、

人を愛するということは、自分自身を愛するということです。

他人の幸せを祈ることは自分自身の幸せを祈っているのです。

 

自分のことだけに思いを走らせることは、自分の半分の存在しか見ていないのです。

全存在としての自分を見ることができたとき、心から他者に対する愛情を感じる

ことができるのだと思います。 




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『自ら選択し、自ら行動する』24.6.22

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ここの処体調を崩して、いろいろと考えることが多かったようだ。

これで良かったのだろうか?90歳にもなり今更悔いることも無いがと思いながら

も何を考えているのだろう。

いま自分がこのようにあるのは、自分の選択だったのだ。

それがどのような結果であろうと、自分自身がとってきた選択であったことには、

間違いない。

人は常に自分という舞台の中で脇役ではなく、主人公として生きて来ているのだ。

それがたとえ、人から見て脇役の様に見えてもそれが自分なのだ。

誰でも自分の道を生きて居ながら、時には自分らしくない行動を取っているかも

しれない。自分自身が選択した道でありながら、迷って居るかもしれない。

自分自身に自信を失い、生きる道を踏み外しているかもしれません。

それが自分であることを認めようとせず、他に責任を転嫁しようとしている自分が

あるのかもしれない。

迷いは決して無駄とは思わない。そこで自分を見直し自分自身に呼びかけ、真実の

自分を見出す場となるからである。

人生、躓いたり迷路に迷い込む様なことがあるのも事実だ。

ただそれも自ら選択した結果なのだ。その時々自分でベストと思って選択したのだ。

それは決して無駄でもなく悔いることもないはずだ。

自分の選んだ道に、自信を持って進めばいいだけの事だ。行き戻りが有っても例え

それが回り道であったとしても自分が選んだ道だと思えば何の悔いもないはずだ。

他人と比較し、より早く、より完全に競うが余り、悔いたり、妬みが生じたりする

のではなかろうか。

自分が選択したのだから、他人と比べたり競ったりしなくて良いのではなかろうか。

自分が選択した道を、自分のペースで着実に進んで行けばいいのだ。

自分の人生に、生きがいを感じ堂々と生きて行くなら、何にもくよくよしたり一度
の躓きに悲観することもないではないか。

もし今これをしないと遅れを取るのではないかとか、自分をデイカウントする様な

ことはしないことだ。

自分の選択した自分の人生を生きて行こうとする時、一番大切なことは自分を信じる

ことだと思う。他人を信じること以上に何百倍も自分を信じることだ。

自分を信じている限り他人と競うことも無く、悔いることもないのである。

今までの自分にもし今気づいたら、思い切って自らに変化を起こしてみよう。

そこには、自分自身の決断が必要だ。決断には細心の注意を払い、大胆なまでの勇気

が必要だ。それもこれも自分をとことん信じているからこそ実践できるのだ。

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    『知識を知恵として活かしましょう』24.6.15

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最近、ただ知っているだけで分かった振りをする人によく出会います。
勿論、知識としていろいろなことを知っていることは、素晴らしいことだと思い
ます。話を聴いただけで本当にその人は行動できるのでしょうか?

ただ理解しているだけで分かった振りをしないで欲しいと思います。


知識は、自分の中で知恵としてプログラムされるまで大変な時間と経験が必要な

のだと思います。

 

私は聴くことが如何に大切であるかと言うことは百も承知です。だが私は聴くの
が下手です。自分なりに一生懸命聴くように努力しているのですが、家内や子供
たちには甘えが出るのか、つい聴かずに反応しているようです。
大変ですが聴く姿勢をもって継続してやってみる必要があります。まだまだ私の
場合は習慣にも行っておらず継続の段階です。

そのうちに自分の中で大きな変化が起きてくるのでしょう。

何事も理解するだけではなく、無意識に行動できたとき本当に分かっている人と
言えるのだと思います。

私は7掛け人生などと言って、今日90歳になっています。「やっと63歳ですよ」
等と言っております。

ここのところチョッと若さが遠のいていっている様に思われます。
ピーターソンが言っていますが「若さを保つには、成長し続けることである。
あなたが年寄りになっていくのではない。伸びていかないために年寄りになるの
である」と。

このことをいつもそうだよねと云いつつも自分で年寄りになっていました。
伸びようとする努力を忘れていました。


最近テレビで読書の時間を作っている小学校の様子を知りました。

本を読む人がどんどん減っていると言うことですが、残念なことです。

先ずは知ることから始まるのです。そうしてそこで知ったことを自ら実践し習慣化
することです。
そうした時にその人のパワーになるのだと思います。
私もここのところ読書から遠のいていました。その事が歳をとらせたのでしょう。


友人から『最近老けたよ!そんな君は好きじゃないね。しっかりして欲しいな。
そうじゃないと、あなたとこうしていることが無駄になるからね』と言われました。

彼のその言葉には、同情ではなく心に私を思う気持ちがありました。友情イコール
同情ではないのです。


相手に厳しく接してこそ、そこに思いが伝わります。それは相手を信じるからこそ
言えることです。


ただ人間関係を本で学ぶだけでは、この言葉は出てこないと思います。

その人は人間として人を信じると言うことがどんなことか身体全体で分かっている
人なのですね。

どんなことでも良いから、今こうしたが良いのではないかと思っていることを思い
切って実践してみましょう。


そうして出来たらそのことを、自信を持って継続して行きましょう。

いつかきっとあなたが意識しないままその様に行動している自分を観るでしょう。

そのときあなたは、心底そのことを分かった人といえるのだと思います。
それが確信というものです。 



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    『コミュニケーションとは何なのでしょう?』24.6.8

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言いならされているのに、コミュニケーション程理解されていない言葉も少な

いのではないと思います。余りにも都合の良い言葉なのかもしれません

自分に都合が悪くなると「どうもあいつとはコミュニケーションが取れてない

のだよ」と言われてしまうことも有るようです。


最近どこに行っても良く聴く事ですが、どうもうちの職場ではコミュニケー
ションが取れていないとか、あのことについてはお互いにコミュニケーション

が取れていない様です等と言われます。 
間違いではないのでしょうが、それぞれの方がその言葉の内包性に違った意味
合いで使われているようです。

 

別にコミュニケーションという言葉だけではないのでしょうが、それぞれの

捉え方が違いそれぞれが、自分なりの意味づけをして使われているので誤解が

生じてくるのでしょう。

 

コミュニケーションが取れていないので、再三会議を開き、その徹底を図って

いると言われるところでも、どうも我が社のコミュニケーションは良くならな

いと言われるのです。

 

そうですか、うちの会社では殆ど会議等行って居ませんがみんな良く分かって

頑張ってくれています。わが社はコミュニケーション、は良く取れていますよ。

と言われるのです。

 

コミュニケーションとは、いったい何をいうのでしょう?

情報を伝達することだけなら、インフォメーションでいいではないですか。

ただ話をするだけでしたら、カンバセーションでいいわけですよね。

 

どちらもコミュニケーションなのですがインフォメーションもカンバセーション

も、コミュニケーションの一つの手段である事を全てと理解されているのでは

ないでしょうか。

 

日常の生活や職場での仕事を進める上で、情報や知識を伝えることは重要な事

です。ただ伝えるだけでしたら、紙に書いて渡せばいいことでしょうし、また

メールで伝えればいいことでしょう。

 

先にあげた 「どうも我が社のコミュニケーションはうまく取れていない」と

言われる会社では、情報システムは素晴らしい上に会議も確実に行われている

のです。

ですが社長の心配なさっている事は、何となく社内が冷たくギスギスしている

様に、感じておられることでしょう。

 

そこに欠けているのは、情報でも知識でもなくお互いに対する関心・理解なの

ではないでしょうか。そのことの解消を図るのに、情報伝達の手段とか会議の

進め方などをいくら修正改善しても、うまくいくはずがありません。

問題はそこではないからです。

 

私は以前 「ヒューマン・コミュニケーション」という言葉を使いました。

それは相手に対する積極的な関心、一緒にしようという心から相手に対して

関わろうとする気持ちを言って居ります。

理論・理屈で人の気持ちなど分かり合えるとは思いません。

 

もし理論理屈で進められるならば、きっと押し付けられたと思う気持ちが、

残ってしまうでしょう。

そこに相互の理解など生まれてくるはずはありません。

人の気持ちは、理論的に割り切れないことがあるのです。

非論理的なことが人と人との関係に於いては、大きな要素となっている事を

日常的に私達は経験して居るはずです。

 

以前ある研修の場で、一人の方が話し合っていたことにどうしても納得でき

ない。自分はグループでそのように決めるのなら、「私はこれ以上ここで

皆さんと話し合うことに意義を感じませんので帰らせていただきます」

ということでした。

 

そう言いながらも私には、その方が「もっと自分の言い分を皆にわかって

欲しい」 という気持ちが、言葉の裏に感じられました。

しかし他のメンバーは、それじゃ帰ったらいいじゃないかともう我関せずと

いった雰囲気でした。

 

私はその時 、私は帰ってもらいたくない。本当に帰ってもらってもいいの

ですか?今日まで一緒にやってきた仲間に本当にそんな気持ちなのですか?

と投げかけました。皆の反応はありませんでした。

 

彼が立ち上がり、荷物をまとめだしました。

私はその時彼の側に行き、ちょっと待ってくれ、二人で話そう と言って、

室外に出ました。

外は雪が降り積もっておりました。彼は素足で出てきていました。

そのことに気づいた時、私は自分が履いていたスリッパをそっと彼に勧め

ました。彼はよっぽど冷たかったのでしょう。

足を擦りながらそのスリッパを履きました。

暫く話しているうちに彼はわっと泣き出し、私に泣きついてきました。

そうして 「本当は帰りたくないんだ !! 皆と一緒にやりたいんだ !!」と震え

ながら叫んで居られました。

 

私がその気持ちをそのまま皆に伝えなさいと言いましたら、彼は研修室に

飛び込んで行きそのままの気持ちを皆に吐露しました。

 

そうしたら、あれほど拒否していた他のメンバーが一斉に立ち上がり

「判ったよ !! 一緒にやろうな !!皆同じなんだよ」と彼を受け入れました。

 

その時、皆の顔が本当に嬉しそうに輝いて見えました。

気持ちが通じ合えたのですね。理屈ではなく気持ちから判り合えたのです。

それからの討議は、まるで別人の様に皆が本音で話し合い素晴らしい成果

をあげることが出来ました。

 

その後その時のメンバーは、いつまでもその時の自分たちを忘れることなく、

本音でのコミュニケーションを図り合え、素晴らしい関係を持ち続けている

そうです。

 

その方々が今はその企業の役員・部長職として会社全体の活性化に努めて

居られるそうです。

会社全が、本当に心から通じ合える仲間同士の会社にしよう・・・・と

日々ヒューマン・コミュニケーションを展開されておられるそうです。

 

◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◇     『みんなが幸せでありますように』24.6.1

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昨日近くの人達と話しているうちに、いろんな問題を抱えながらも皆が必死で
この町内全体の中を、何とかしなくてはと思われていることを知ることが出来て
嬉しく思いました。


誰だって人が不幸になることなど望んではいませんものね。
皆よくしたいと思いながら、その気持ちを伝えきれないもどかしさを感じて
居られていたのですね。


『慈悲喜捨(じひきしゃ)』という仏教の教えがあります。

「慈」とは慈しみというように、相手に幸せでいてもらいたいということだと
思います。世の中の人皆が、幸せでありますようにと願う心だと思います。


私は私の立場から、良かれと思う行動をとっているはずです。

そうすることが隣近所のよりよい関係に、繋がると思っているからです。

私もこの歳90歳までの間に、いろいろと迷い苦悶することがございました。



本当に世の中のためになっているのだろうか、皆の幸せに役立ってきたの
だろうか? そのことが私の幸せに、繋がっているのだろうかという思いが、
頭から離れませんでした。



その様に皆が幸せになりますようにと、皆のことを思いやる心を「悲」という
のです。

そうした時多くの問題は解決され、目指していた目標は達成されるものです。

そうして皆の願って来たことを、叶えられますようにと喜び合える心を「喜」
といいます。


そのように皆がそれぞれの願いが達成出来るように協力し合え、喜びを共に
出来るように努力することが全ての解決の糸口だと思います。
そうした時、みんなに智慧の光が差し込んできます。そこに思わぬ創造力が、
生じてくるのではないでしょうか。

皆に智慧の光があらわれますようにと、お互いを尊びあう心を「捨」といいます。

家庭では親子兄弟皆が、地域ではそこに住む一人一人皆が、友人同士が、国と国
が、全ての人間同士がお互いに「幸せでありますように」と、また「みんなの
悩みや苦しみがなくなりますように」そうして「皆が願ってきたことが叶えられる
ように」と協力し合えたならば、世の中どんなに素晴らしいところになるでしょう。


そのために私たちは、自分にとって最も身近な所・家庭・地域・職場の中でお互い
を尊重しあい、お互いに智慧の光のもとで創造性を発揮し、未だ見たことも無い
素晴らしい人間の叡智による新しい人間社会を作り上げて行きたいものです。


『慈悲喜捨(じひきしゃ)』、この四つの言葉の一つでも、いつも心を込めて
念じて下さい。不思議なもので、念じた途端に幸福が次々とやってくるものです。


人間性回復運動はこの4つの言葉を実践する場です。


今まで私たちが体験したことが無い素晴らしい人間社会を、肌で掴むことが
出来るのです。
(ウッシー 拝)


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    『人の長所を認めると』24.5.25

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Hさん。昨日は随分辛かったようですね。もっと楽しくしましょうよ。

 

私も辛いことが随分あります。ただあなたとの違いは、私が何かをしようと

した時に、自分の力不足で思うように行かない時に辛く感じます。

 

あなたの話を聴いていて、あなたが昨日接した人に対して嫌な感じを抱いて
居られるのを感じました。人を嫌いになることの原因は、その人の欠点が気
になりだした時ではないかと思います。

 

あなたがその方のことから、辛くなってきているのではないかと感じました。

人には誰だって欠点は有るのではないでしょうか?私も自分では気付かない
でいる欠点が、いっぱい有るのだと思います。
あなただって、自分の欠点ばかりをああだこうだと言われたら嫌になっちゃい
ませんか?

 

だから人を嫌いになっちゃいけないのです。人を嫌いになることを直す方法が
ありますよ。簡単なことです。やってみて下さい。

 

それは相手の長所を見つけることです。誰にだって必ず長所は有るものです。

短所と思っていた事を肯定的に見ると、不思議に長所に見えて来るものです。

長所を見ていると、いつの間にかその人が素敵な人に見えてくるのです。

 

また相手の言うことが、どうも違うのではないかと思った時、相手の違いを
責めるのではなく、自分の無知を認めることです。
そうすると相手との違いが、なるほどねと受容れる事も出来るものです。
自分の考えや習ってきた事だけを正解とせず、いろんな見方考え方があるの
だと、教えてくれた事を感謝する事も大切です。

 

ドイツの格言に「苦さの味を知らぬ者は甘さもわからない」という事があり
ます。この度のあなたの経験を、次に活かして下さい。

 

誰にだって一度や二度の間違いはあるものです。失敗と思う事も有るでしょう。

大切な事はそこで諦めず、次にはもっと素晴らしい成果があることを信じて、
次にチャレンジして欲しく思います。

 

チャレンジをやめたとき、今までのあなたの努力は水泡と消えてしまいます。

何事も諦めない限り、それは未来につながる大きな明るい道なのだと私は確信
しています。

 

人間性回復運動の中でもいろいろな躓きもあります。
もう止め様かと思うような時も再三有りました。
しかしそれを乗り越えたとき、素晴らしい感動と信じがたい喜びと愛を感じる

事が出来たのです。自分がこう思ったら、諦めず信じてやり抜きましょう。

 

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   『自ら成長するために』24.5.18

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どうも私は「いま・ここ」を大切にしなければと言いながら、いつも今までの
習慣に流されていることが多いようです。
習慣が悪いというのではなく、習慣にとらわれえている限り、「いま・ここ」
の進化が無い様に思うからです。
現状に拘っていると、中々前に進まれません。そういう時に、出来るか出来ない
かなど気にせず、「出来たときのこと」をイメージするようにしています。
そうすることが変革の第一歩になるのだと思って居るからです。

 

人生に成功するという事は、自分の生き方を常に変化させていくことだと思い
ます。変化は絶え間ない、自らの創造への働きの結果であると思います。

創造的な活動を進める上で、決して口にしない事は「できない」という言葉だと
思います。

 

再三言ってきたことですが、人生に失敗など無いということです。「今そのこと
が上手く行かなかったとしたら」、それは失敗ではなく、成功への1ステップに
過ぎないということです。

 

私達の潜在意識は、口にしたことと、起きていることを識別できないのだという
ことを、何かの本で読んだことがあります。
もしそうだとすれば、失敗したと口にしたならば折角上手く行くことまで、失敗
にしてしまうのではないでしょうか!

 

どんな時にも常に、「上手くいって、ありがとう」「またこんな事も出来たよ、
あなたのおかげです。ありがとう」と感謝と、積極的な気持ちの言葉が自分の
人生を変えてくれるのどと思います。

 

変えるためには、そんな大袈裟なことではなくても良いのです。

毎日していることを少し変えてみるのです。
朝起きたとき「おはよう!おう、今日も快調だ」「よし!やるぞ!」と口に出し
てみましょう。意識的にやってみることです。

 

10分掛かるところを、チョット足を速め9分で歩いてみましょう。
それだって大きな変化です。どんな大きな変化でも小さな事の積み立てです。

 

私は毎朝、体重計に乗ります。0,1キロ減った、夜風呂から上がるとまた計ります。

何と0.4キロへったと思うと、次には1キロ減量にチャレンジできるのです。

それだって大きな変化でしょう。そうしてそれが出来た時、不思議とその達成感
が何事に対してもやれるという自信へと変わってくるのです。

 

行動を起こそうとする時、私達が陥り易いのは100点満点を期待し,なかなか行動に
移せないということです。

 

かって当時の日本チバガイギー社の、クノップ社長と対談しておりました時、
「どれだけの確率があったら貴方は決断しますか」と問われたことがあります。

 

60%と答えると、「私は50,001%の確率があったらやります」といわれた
ことがあります。

流石だな!と感動しました。0,001の確率があったら行動することが大切なの
だと強く感じました。

 

行動することによって残り49,009%の創意工夫が生まれてくるものです。
余計なことに時間とお金をかけるより自分の持っている智恵を出し惜しみしない
ことです。

 

人間性回復運動は、今までの経験にとらわれず、今までやろうとしなかったこと
を自ら決断し実行することです。

 

そこから創造もしなかったような達成感と、やれるという自信を得ることが出来
るのです。 



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 『今日一日が、一番大切なこと』24.5.11

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久しぶりの連休を散歩と瞑想に多くの時間を過ごしました。

最近は余り、心の迷いから時間を無駄にすることも無くなりました。

今日までの人生自分で、これで良いのだあと思える日が多くなったように思います。
とは言え、決して慢心することが無い様にしたいと思って居ます。

人生に成功というものがあるなら、死に至ったとき周りに対して感謝の気持ちで居られるようになったときではないかと思って居ます。

私はいろいろとやって来ましたが、真の目的地は事業の成功でもなく金銭的な豊かさでもなかったと思って居ます。それらは、あくまでその日々のプロセスに過ぎなかったのです。

真の目的地に到達するまでは、毎日々を着実に進むことが大切だったのだとは思って居ます。
そこに私の進む道があったのです。目的地に至るまでには、いくつもの道があるはずでした。

富士に登る道はただ一つじゃないのと同じです。

大切なのはその頂上にたどり着くには、どうしたらたどり着くかを考える前にそこに行こうとする情熱と強い意志こそ必要なのだと思います。

それらの事は良く分かっていたつもりでしたが、私はどうしたら辿り着くかに囚われ過ぎて大切なものを見失っていたのではないかと今思わされている様です。

どうしたら辿り着くかを考える前に、自分の信じた道をその情熱を持って突き進むことが大事なののです。その時々迄に得て来た知識、経験に固執することなく、自分の目指す目的地に向かって、
本気で取り組むことが必要だったのだと今更ながら強く感じています。

ここ90歳という歳になり、目的地に至るまでのその途上にある自分を、今尚振り返っています。

いかなる時にも、今の自分が置かれた立場をじっくりと見つめ、もう一歩、もう一歩と今を大切にして進むことが大切だったのだと思います。

今自分が存在する場にいて、自分が何のためにそこにいるのかをしっかりと自分の中に認め今自分が出来ることを精いっぱいやっていくことが重要なのだと思います

「世のため、人のため」という、思われる人になりたかったのです。
そう言う人こそ、「自分のため」の生き方ができている人と、言えるのではないでしょうか。

詩人坂村真民の詩が今更のように胸を打ちます

 つみかさねの上に 咲く花 

 つみかさねの果てに 熟する実

 それは美しく尊く 真の光を放つ



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 『運が良いとは、諦めないこと』 24.5.4

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以前、運が良い云々と書きましたら、いろんな方からいろいろとご賛同ご批判を頂いたことがありました。

「ウッシー先生は運が良いのではなく、努力家なのですね」という40代の方からのご指摘を受け、そうかなとも思いました。
確かに、いろんなことをやり、うまくいったり失敗したりしたことがありました。
ただ私はその失敗を失敗とはせず、次へのチャレンジにして来ました。一度や二度の失敗は誰だってあるのではないかと思います。私はその時もう駄目だと諦めたら、失敗に終わってしまいますが再度チャレンジのチャンスだと思って来ました。そこに成功が待っているのだと思って、簡単に諦めないでその事に再度立ち向かってきたように思います。続ける限り、未来に繋がる成功があるのだと私は信じていました。

私は戦後、中国から引き揚げて来ました。苦しい環境の中で、日本に帰りたいという気持ちでいっぱいでした。

「必ず日本に帰ろうね」という父母の強い意志が、私達一家を無事日本にたどり着かせてくれたのだと思います。
決して私達は運ではなかったと思います。強い両親の意志の贈り物だと思っています。

私は、決してそれ程意志の強い子供ではなかったようです。

父母に甘え、「自分から何でもしよう!」というような少年ではなかったそうです。父母の心配の種だったそうです。

父母は私を強い意志を持った、自立心の強い子に育てようと、常日頃から苦心していたようでした。
何年もその様に、父母を弱らせていたようでした。
何年掛けても変わらなかったその私が、ある時有る一言にぶっつかりその瞬間から変わったように思います。

その一言とは、30代の始め、経営コンサルタントとしてある研修を担当していた時に先輩コンサルタント吉田さんから「甘ったれるな・・・」と叱られたときです。

その時10数人のコンサルタントで、それぞれのグループを担当し100名を越す参加者の公開講座を行ってました。

私のグループは、ずば抜けて成長し、全員が満足感を持って居り、私もそれなりの自惚れを感じておりました。

その時「甘ったれるな・・・」の言葉は、私にとって以外であり理解出来ない言葉でした。


然しその時、「何!よしそれじゃもっと凄いグループにしてやるぞ」という反撥心と、燃えたぎる様なものを感じました。
そのことが私を変えたのだと思います。

人が変わるのは、時間の長短ではなく本人の意志次第だと思います。
自分に対する強い思いが、本人が思う以上に人を変えるのだと思います。

デール・カーネギーの言葉を借りると、「熱中を得る方法は、自分の手がけている事柄を正しいと信じ自分にはそれをやり遂げる力があると信じ、積極的にそれをやり遂げたい気持ちになることである」ということです。

自分から自分を信じ、自分が為すことを信じ、それが絶対可能であると信じ行動する勇気を持つことです。
最後まで諦めない事こそ最大の力となるのです。

福沢諭吉の言葉に、「人に交わるには信をもってすべし。己れを信じて、人もまた己れを信じ、人々相信じて始めて自他の独立自尊を現実にするを得べし。」とあります

人間性回復運動は自分を信じ、自分の力を発揮できる無限の力を、相互の関わり合いの中から確信を持って確立していく、自分自身が創り上げていく自分自身の行動なのです。


 

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    『進歩とは変化すること』24.4.27

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最近、友人で驚くほどの変容を感じさせる人がいます。

以前の彼には全く感じられなかった積極性と、はっきりと自己主張する彼の行動に私自身ビックリするほどです。

当の本人も、これで良いのでしょうかと自分自身の変容に戸惑いさえ感じているようです。

 

私は彼にこの様に言っています。あなたが今まで学んでこられた事は、頭の中での理解でした。学ぶということは変わると言うことです。確かにあなたの変容は、周りの方にもビックリさせるほどのものであるかもしれません。

しかしそれは恥ずかしい事ではなく、誇らしい事ではないでしょうか。

 

勇気のない方は頭では理解していても一向に行動には移しません。そうして批判のみ多いようです。

そのことこそ、恥ずかしいことではないでしょうか。その様な人こそ自らそこに留まり、言葉を変えれば成長することを恐れている、意気地なしと思われてもしょうがない人だと思います。

 

何事でもそうだと思いますが、そのことを成し遂げるには、どんな知識を持っているより成し遂げようとする意識とそれを行動に移す勇気を持っていることだと思います。

自分の行動にふっきれず、起こりもしないことを恐れて、踏み出さなければ何の進歩もありません。

人生は全て自らの意識による実践です。

 

失敗を恐れていたらどの様な実践もありえません。

成功は失敗のように見えても、その様なことの積み重ねによる成功なのです。人生に失敗はありません。

「生き得たこと」が成功なのです。

 

どの様な才能も一瞬にして生まれてくるものではないと思います。

友人に優れた講演者が居ります。中学時代の彼は、いつも後ろに引っ込んでいて、生徒会とかクラス委員なども決して引き受けようとしない消極的な口下手な生徒だったと思います。

今は何百人の前でも堂々としたものです。

 

聞くと、高校時代に何度も弁論大会で失敗をして、笑われ逃げ出したくなった事があったそうです。

早稲田に進み、弁論部で鍛えられ今では雄弁さの権化のような存在です。

人は、生まれながらの才能と言いますが決してそうではないのです。

 

彼の何としてでもいっぱしの演者になろうと言う信念と、積み重ねた経験が彼をしてそのようにしたのです。

才能とは、そのことを成し遂げようとする情熱だと思います。

 

人生において成功というものがあるとするならば、それは学歴でも地位でもありません。

成し遂げようとする知恵と勇気、そして未知に対する挑戦しようと言う強い意識だと思いす。

 

人生では、計り知れない問題に遭遇する事があります。試行錯誤は人生に付き物です。

人生には、恐れず果敢に挑戦し続ける勇気こそ大切なのだと思います。そこから、自信が生じてくるのです。

そうしてその様に行動したとき、誇りとなって身についてくるのが自信だと思います。

 

人間性回復運動は、自ら恐れや不安を乗り越え、お互い同士に真に信頼し合える関係をつくり上げていく過程で、人間の素晴らしさ、愛することの偉大な力真実の喜びを体得して人間として生きていく自信と誇りを得る自分自身の人生行路です。


◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◇    『感謝の中から信頼が生れる』24.4.20

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毎朝起きたら、今日も元気であることに感謝し、今日一日が更に素晴らしい一日であるように祈るのがわたしの習慣です。

今日一日を素晴らしい一日にと思うと、自然と自分自身の言動に意識が向いて行きます。
人に対する怒りや不満なども消え、感謝の気持ちが更に強くなってきます。 
人生って否定的な思いを持つと辛くなります。

それに比べ、肯定的に思うと、感謝に満ちた一日を過ごすことが出来るのです。自然と嬉しいなあ、楽しいなあ、有難いことだという気持ちが強くなってきます。するとその様な言葉が出てしまいます。

有り難う!楽しいね!嬉しいね!と言われて嫌な気のする人も少ないと思います。

皆が喜び、楽しみ、感謝しあえるようになる事こそ最大の喜びではないでしょうか。

 

とは言っても、人間は感情の動物です。あるときにはやる気に満ち溢れていても、あるときにはどうしようもなくやる気が起きず落ち込んでしまうときもあるものです。

 

そういう時、私は今やろうとしていることに意識を集中します。やる気は集中力から生じてきます。

何事でもその事に集中する事が第一です。そうしてそのことに集中している自分に感謝するのです。
ここまで自分を集中させてくれて有り難う。その事によって、そうしている自分に誇りと自信を感じるのです。

 

結果、自然と自分にモチベーションアップを図れるのです。

そうすると体調がすぐれないとか、今日でなくても・・・などの言い訳もなくなってしまいます。

 

またよく聞くことですが、「今のままでよいとは思っていないが、もし今のやり方を変えたらおかしくなるのではないだろうか」「失敗したらどうしよう」などと、先々のことを心配して先に踏み出せないのです。

その様に起きてもいない事を心配したり、やってみもしないで出来ないんじゃないかと心配したりして、今行動を起こせなくて、いつ行動を起こすのですか。余り考えずに、今そう思ったらやってみる事です。

 

そうしておかしいと思ったら、さっとやり直せば良いじゃないですか!

 

明日のことばかり考えて、今に目を向けきれないと先は見えません。

今を生きないで明日を生きる事も出来ないのです。大切なのは今の自分の心をそのまま自分の鏡に写し、自分がそう思ったことを、自信を持って行動に移すことです。結果の後から来るものです。

そうして起きた結果に、自分から責任を取れば良いじゃないですか。

 

人生って、自分だけに与えられた自分の人生だと思います。
他の人も皆自分と同じく、その人の人生を生きているのです。
だから自分が大切なように、他人も大切にしようと言う気持ちが生じてきます。
それがお互いを尊重しあうと言うことじゃないでしょうか。お互いを信頼しあうということじゃないでしょうか。

 

人間性回復運動とは、単なるヒューマンスキルの向上ではありません。
人として自分の存在を、あるがままに受け入れ他人との関係の中で自分を高め、人を認め、自信を持って自分の人生を精一杯生きる自らの人生行路なのです。


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   『起こったこと全てを受け入れる』24.4.13

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人生には、はかり知れないことが、いろんな形で起きてきます。
自分で良かれと思ってしたことが、とんでもないしっぺ返しをされたこともありました。

それが今の自分にとって、どのようにあろうとも、すべて受け入れることだと思います。
受け入れるとき、その事を良い悪いで判断することなく、あるがままに受け入れることが大切だと思います。
悪いと思うことを受け入れようとすると、それは自分にとって負担となり、欺瞞となり、不平不満の元となってしまいます。

と言うことは、受け入れているのではなく、受け入れてやっているという自分の高慢さに過ぎないように思います。

 

例えそのことが自分の意に反すると思われることでも、あるがままに、その様に起きている事実を受け入れることです。

その事すら、自分の成長のために、自らの試練のために、与えられたチャンスと感謝さえする気持ちがあると良いなあと思います。


何故なら周りに起きていること全てが、図り知れない何らかの意図があるからだと思うからです。

 

とは言っても、人間誰だって完全な人なんて居りません。


皆いろんな欠点もあり、至らない点があるものです。
もし何の欠点もなく、自からを完全なものと言える人が居たならそれこそ偽善的な行動であり、最も避けなければならないことだと思います。

いろいろと苦難にあい、耐え切れない様な苦しみ、思いも掛けない様な不運に遭遇して、自らの不運を嘆くこともあるでしょう。

また信じていた人に裏切られ、悲痛な思いをすることもあるでしょう。

 

だが今そのことがどんなに苦しくとも、それを乗り越えた時、素晴らしい喜びと変わってくるものです。
ゲーテも、言っています。「苦難を乗り越えてこそ、甘美なる喜びがある」と。

 

私は優れた方々の生き様に、多くの影響を受けてきました。徳田球一、橘孝三郎、松下幸之助、盛田昭男その他数々の経済人・思想家・教育者の方々にお会いしてきました。

ただその中の誰一人として、こうしなければならないと、ご自分の考え方やり方を、押し付けてこられた方は居られませんでした。


私はその方々から、生き方を、考え方を、そして人間としてのあり方を、背中から学んで来ました。 
それらの方々は、教えるのではなく私を育ててくださったのだと思って居ます。

それらの方々が、どの様な苦難を乗り越え、どの様な不運を生き抜いてこられたかが、私の大きな成長の糧となってくれたのです。

 

人生常に、順風満帆のときだけでは有りません。ただその如何なる時も、自分がどれだけ幸せであるかを信じられる人こそ、真に生きている人と言えるのではないでしょうか。
今の幸せを、幸せと感謝できる人のみ真の幸せを得ることが出来る人だと思います。

身の回りに起きていることを、真に自分から受け容れる心こそ、今求められていることではないでしょうか。

 

人間性回復運動とは、あるがままの自分を、あるがままに受け入れる勇気と、あるがままに生きる力を得ることなのです。



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    『一期一会から学ぶ』 24.4.6

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今日も、多くの人との出会いがありました。
今日お会いした方とまたいつお会いできるかと思うと、今日の出会いが凄く大切な出会いだったと思います。

私たちは毎日多くの方との出会いを持っています。自分が意識しない中でも出会いはあるものです。
その無意識の出会いの中で、相手に好感を与えていた場合と、不愉快な気持ちを与えている場合とがあると思います。

その様な無意識の出会いは、多くの場合自分が気付かないのですから相手に不快な感じを与えている場合が多いようです。

 

通勤電車の中で、無意識に相手の足を踏んだことに気づかなかった場合、話し合いの場で相手の気持ちに気付かず話しの場を取ってしまった時など、いろいろなところで不愉快な気持ちを与えていることだと思います。

 

いつも笑顔でニコニコしている人には、その不快感を感じません。

 

電車の中で隣の席が空いた時、失礼しますと微笑みかけながらお座りになった50代くらいの人に接しました。その自然な振舞いとにこやかな表情に、こちらも気持ちよい思いをしました。
またお会いした時には、私の方からにっこりと「失礼します」と声を掛けるのではないかと思います。

人間っていろんな事を詰め込んでも、決して幸福な気持ちにはなれないものですね。

ちょっとした心に残ることを、周りに与えることが出来た時に幸せになっているのではないかと思います。

凡人はちょっとしたことに、腹を立て言い争ったりいがみ合ったりするものです。

心に余裕のある豊かな方は、言い争ったりいがみ合ったりなされないものです。
常に相手を受け入れようとすることに心がけ、許容の態度を充ち続けていて居られます。
その様な人に接すると、こちらも笑顔で相手を受け入れようとしますし自然と笑顔が生じてきます。

出会いは、そう思うと非常に大切なことですね。いつ何処でも、新たな出会いが待っているものです。
いつも相手に対して、誠心誠意に接していきたいものです。

 

一期一会という言葉があります。 「一期」とは人の一生、「一会」とはただ一度の出会いです。 

人としての幸せは、すべて今ここでの出会いからはじまるのだと思います。

 

チェーホフは、賢い人ほど謙虚であるといっています。

ちょっとしたことでも、すぐ君それは違うよ、そうしなくちゃいかんよ!と教師ぶったりする人もいます。

 

40年以上教育研修インストラクターとしてきて教えることの難しさを、身を持って体験して来ました。
教えるには少なくとも知っていることより、4倍は学ばないと出来ないということを知らされて来ました。

謙虚にまだまだ未熟な自分であるとの思いで、学ぼうとする姿勢が必要だと実感しています。

何事にも興味を示し謙虚に学ぶ心があれば、常に回りに対しても真摯に笑顔で出接することが出来るのではないかと思います。 そこに「一期一会」の気持ちも生じてくるものです。

 

私達が学び修行するという事は、今起きていること、今ここにあるのです。

一期一会から学び、一期一会を大切にすることから自己を磨いていけるのだと思います。

 

人間性回復運動は、一期一会を体験しながら自らの成長を図っていく自分自身の人生行路です。


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 『気持ちに火をつける』24.3.30

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最近いろいろな問題に遭遇して、行動に起こす上で躊躇することが再三ありました。
何をするにも気持ちだけでは出来ないことがあるようです。


オルコットが云っている様に「火をおこすには火打石が二つ必要だ」ということでしょう。

気持ちに火をつけるには、何としてでもそれをやろうとする信念が必要なのだと思います。
そうしてそれを具体的に行動に移す行動力が必要だと思います。

会社を経営していく上においても、売上を上げることばかりを考えていても売上が伸びる
ものではありません。

顧客が何を求めているのか、本当に顧客の役に立つものは何かと、顧客のニーズに応える
ことが必要です。

その際必要なのがこちらの経営の理念です。


理念の無い中でただ相手に振り回されているようでは、決して真に顧客の役に立っている
とはいえません。

顧客の今の満足も大切ですが、長い目で見たときに真に顧客の役に立っているかどうかが
問われると思います。そうでなければ、「廉かろう、悪かろう」になってしまいます。


我が社は顧客のニーズを的確に掴み、我が社の製品・サービスが真に顧客のためになると
いう信念に基づいたものを提供することが大切です。


このことは対人関係においても然りだと思います。

ただ今その人に喜んでもらえるからといって、心にも無いお世辞を言ってもその人にとってプラスにはならないでしょう。

私たちは波風を立てないようにとか、相手を傷つけないためと云いながら結局は、無難に
過ごしてしまうことが多いようです。その結果、後々に問題を先送りしているようです。


真に相手に関心を持ち真に相手のことを思うなら、相手に遠慮することこそ問題です。


嫌われても良い!相手から無視されても良い!どんな仕打ちを受けてでも良い!真に相手を思うなら自分がどう見られようと、そのことは相手のことではなく自分のことですから耐えられます。

ヘンリー・ソロの言葉に「ひたすら生き、仕事をする。まわりに気を配るのはそれからだ。」というのがあります。

先ず自分のなすべきこと、自分の信念を生かしきることこそ大切です。

それをせずして気を配るというのは、相手に遠慮することになってしまいます。

真に信じあい許し合える関係であれば、何の遠慮もなくお互いに率直に関わりあえるはずです。
そこに真実の関係が築かれるのではないかと思います。

その時の「気を配る」と言う気持ちは、それが本当に役に立っているかという気の配りだと思います。

忙しいときに限って、自分を見失ってしまうことがあるようです。
何のためにやっているのか?
何故、今それが必要なことなのか?
それがあなたの信念に悖ることはないのか?
と内省してみて下さい。


そうしてどんなことでも良いから、これだけはやらなくてはと言うことをほんの少しでも
良いからもう一歩踏み出してみましょう。そうしてそのことを毎日実行してみましょう。
きっと大きな進歩を得ている自分を、見出すことでしょう。


「閉まったドアを見ていると、自分のために開いているドアが別にあることに気づかない
場合が多い。」とヘレンケラーも言っています。

出来ない理由、過去の自分にこだわることなく、新しい一歩を踏み出しましょう。


人間性回復運動は、他人から率直なフィードバックを戴き、真剣な衒い(テライ)の無い
関わりの中で、真の自分に気づき他者との信頼を構築していく自らの人生行路なのです。

  


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    『幾つになっても学ぶ心が大切ですね』24.3.23

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1940年3月12日私が7歳の時、母が亡くなった命日です。

毎年この日を迎えると、母が生きて居たらと思いつつこの一年を振り返り自分自身を
再考する日だと、思いを新たにしています。

いつもながら人間ってどうしてこんなに素晴らしいのかなと、自分が人間であることを
誇らしく思うのです。人間って生きている限り、学び続けていける動物なのでと思って
居ます。
私も90年間人間として生きてきて、人間として生きることについて学んで来ています。

今日の私は、昨日の私ではありません。
それ故に昨日の行動は、過去の行動であると自分に言い聞かせ今日の行動をとるように
しています。
私の尊敬し信頼する方にT.Sさんという方が居られました。
私より数歳年上で居られたので、既に94歳を超えられていると思います。
その方からいつも学ぶ心を失わないようにと、叱咤激励を頂いています。

T.Sさんは常に何かを学ぼうとする姿勢をお持ちの方です。
孫や曾孫のような方々とご一緒にお仕事をなさって居られたお姿が、目に浮かんできます。
あれこれ煩くなさるようなことはなさらず、“うん うん”と頷きながら人の話を一生懸命に聴いて居られるのです。

当時、私立中・高校一貫校の校長として子供たちの教育に当たっておられました。

その方から、私はいつも多大な励ましとエネルギーを頂いていました。
何と言ってもその方の人間愛が、私の学びの心の支えとなっていたのです。

巷では、やる気を失った若者たちやまだこれからというのに、老け込んでしまっている定年前後の人達、今の何とも云い辛い環境の中で、自分自身を失い人の所為や、世間の所為にしている人があふれているようです。

それらの人は学ぶことを忘れ、人としての尊厳をどこかに置き忘れているのではないかと
思います。
人の老いや悩み苦しみは、自分自身の生き方から生じているのではないでしょうか。
人は自ら若さを保ち、自ら学ぼうとする姿勢がある限り、常に若く成長していけるものだ
と思います。

ピーターソンの「あなたが年寄りになっていくのではない。伸びていかないために年寄り
になるのだ。」という言葉を肝に銘じたいと思います。

学ぶ心のある方は、老いを知りません。不安を怖れません。過去に生きようとしません。

学び続ける限り、人は成長します。成長する限り人は老いることを忘れます。
老いることのない人は、常に新しくチャレンジするものです。
チャレンジする限り、新たな自分を見出すものです。

新たな発見は、新たな喜びと生きている事への感謝の気持ちを高めることが出来るもの
です。そうして生きている限り、新たな自分を創り上げていくのです。

人生は自分探しではなく、自分をクリエイトしていくことだと思って居ます。



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     『フィードバックこそ成長の糧』24.3.16

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親しい友人から、無言の叱咤激励を貰いました。
自分では意識せずにいつの間にか、歳の所為にして逃げていることがあったようです。

成長していく周りの人に、若いって良いな~と自分を歳の所為にして出来ないことを
合理化していたようです。

 

本田宗一郎さんの残された言葉に“チャレンジして失敗を恐れるよりも、何もしない
ことを恐れよ”という言葉があります。

本田宗一郎さんにお会いしていた頃、ご年配であるにもかかわらず、常に疑問を投げ
かけられていたものです。お答えすると、「もしそう行かなかった時、君はどうするね?」
と新たな疑問を投げかけられました。

そのようなことから、私はいつの間にか「もし・・・だったら」と考える習慣を身につけ
て来たようでした。それは次へのチャレンジに繋がっていたようです。

 

当時を思い出すと本田さんは、昨日起きたことを常に今日の師とされて居られました。 
昨日のことを自らにフィードバックされていたのです。

人は年を取るにしたがって多くの経験を重ねてきます。それらは今の師となるはずです。

 

決して過去に奢ることなく、過去に悔いることなく、過去を無視することなく、今に
チャレンジすることこそ必要なのだと思います。

 

若い友人が成長していく姿を見て、自分のことのように嬉しく思うと同時に、それらの
ことを自分への叱咤激励と心得、更に自らの成長の学びにしていかなくてはと、思いを
新たにしました。

京セラ創業者である稲盛和夫さんは、又この様なことを言われています。

「問題点を指摘する勇気のないものは、経営者になれない」と。
このことは人の成長に於いても言えることだと思います。

 

人は稍々もすると、他人への思惑から変に思われたくないとか、嫌われたくないとか自分
の護身から人に率直に指摘することを恐れているようです。

そのことは相手のことを本当に思いやるのではなく、自分のことを守ろうとしているだけ
だと思います。

決して他者を非難、批判するのではなく、相手を思い、相手の成長を期待し率直に指摘
できることこそ重要なことだと思います。

同時にそれらの指摘を率直に受容れる度量こそ、必要なことでもあると思います。

愛なき言葉は暴力です。他者に対する愛ある言葉こそ、真に他者に対する思いやりある
指摘だと思います。

 

人間性回復運動においては、日頃お互いが避けているようなことまで率直に指摘し合い、
お互いの成長に寄与し合い、真の人間関係を構築して行くことです。

そのスキルがこれからのお互いの成長に役立っていくのだと思います。

 

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   『百点満点で無くても』

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友人の紹介で知り合った陶芸をやっている人から最近この様なメールが来てびっくりしました。
「何度やっても失敗ばかりで、私には無理だと言うことが解りました」と言うようなメールでした。

私から見たら「何て素晴らしい才能の持ち主なのだろう!」といつも思って居た人です。
何度か訪ねた彼の作業場には打ち砕かれた壺や皿が散らばっていました。素人の私には凄いなと思われる様なものばかりです。

でも完璧を求める彼には許されないことだったのでしょう。

 

「百点満点」などどんな道にも存在しないのではないかと思います。

私の90年間の経験にもこれと言って「百点満点」と言える様なものはありません。
ただ私はいつも投げ捨てることなくコツコツと進めて来ました。そうして今なお精進するばかりです。


自分の能力を発揮すると言うことは、私は今この瞬間に集中することじゃないかと思っています。
そうして一つのハードルを飛び越えたら、必ず何らかの力が付いているものです。

それが次へのチャレンジする勇気と自信を与えてくれるものです。

 

人生には山あり、河ありです。ただそれは多くの場合その人の心と行いによる様な気がします。
過去に囚われたり、未だ見ぬ将来に想いを馳せている限り満たされることは無いでしょう。

今を精一杯生きることにより、さらに先へと進む勇気も起きてくるものではないでしょうか。

今はそれほどと思っても居ないことが、将来大きな成果となることがあるものです。

それを信じてこそ、今を生きられるのではないかと思います。

人生には、自らの運命と言うものがあるのかもしれませんが、自分が信じて行動する限り何事にも失望することなく、喜んで生きることが出来るものだと思います。

 

人生に於いて、不平不満がないと言うことは無いでしょう。その様な不平不満が生じてくることは、全て自らの成長のチャンスだと思います。


それらの不平不満を、ポジティブに置き換えその事に集中しましょう。

きっと素晴らしい道が開けて来ます。

 

人生に、遅いと言うこともありません。自分で無理だと決めつければ、道は閉ざされます。
今に生きると言うことは、今が出発点です。遅いと思えば、それが幾つの時でも遅くなります。
今だと思えば、幾つの時でも出発が可能なのです。


人間性回復運動は、自らの力を信じて自らの道を自らの力で生きて行き、人に対する信頼を築き上げていく自らの人生行路なのです。 




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       『悲しみに立ち向かう勇気を持とう』24.3.2

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ここのところ親しい友人からの訃報に接することが多くなっています。

90歳という歳で、周りの親しい友人も同年代の人が大半です。
人生100年時代とは言え、矢張り歳には争えないのでしょう。

悲しいことだとは思いますが、悲しみに落ち込んでいては益々悲しみがこみ上げて来るばかりです。

永い人生には、いろんな悲しみに陥る事があると思います。両親の死、恩師の死、尊敬しご交誼を頂いていた方々の死等‥に出会い、悲しい思いを致しました。

また自ら創業し、打ち込んできた事業が思わぬ障害に出会い、廃業に追い込まれたことなど悔し涙にくれたこともありました。信頼していた友人に裏切られ、大きな損失をしたこともありました。

 

私の好きな作家<ヴィクトル・ユーゴー>がこんなことを言っています。

『大きな悲しみには勇気をもって立ち向かい、小さな悲しみには忍耐をもって立ち向かえ。一日の仕事を終えたら安らかに眠れ。後は神が守ってくださる。』と。
私は何度この言葉に救われたことでしょう。

 

私はこれらの悲しみは、自分に与えられた試練であると思い、それらの悲しみを自ら「ばね」として次へのチャレンジとしてきました。

先週も親しくしてきた友人の訃報に接し、何か大きなものを失ったような、言い知れぬ敗北感を味わいました。久しぶりに味あう悲しみでした。

妻は慰めてくれましたが私の心の中に、こみ上げてくる寂しさに伴う悲しみが生じてきていたのです。

だがその時も“大きな悲しみには勇気をもって立ち向かえ”と、私に更に勇気を持って、次へのチャレンジに向かわせて呉れたのが、ヴィクトル・ユーゴー の言葉でした。

日頃の他者との関わりも、必ずしも気持ちの良いことばかりではないものです。その様な時ダメだな!“分かってもらえないな”と思って関わりをやめてしまい、嫌な思いを残したままで居ると、自分自身の中に悲しみと同時に、何とも言い難い嫌悪感が生じて来るものです。

 

そんな思いをするくらいなら、とことん真剣に関わってみることです。

人を理解するということも、勇気を持って立ち向かうことです。

人を責めるのではなく、チョットのことから諦めたりしないことです。

その人を心から理解したいという、相手に対する関心を深めることだと思います。

 

マザーテレサのことばを借りますと、関心を持つということは、相手に対して愛情を持つということです。
人との関係は、相手に対する愛情を持ってこそ築かれるものです。

なんでもそうですが、人との関係も「現状に満足しない」ということです。

 

私は妻との関りに於いて、ついつい自分の感情に走り、相手を無視することがあります。

相手を無視するということは、相手の気持ちに鈍感であるということに変わりが無いようにも思います。
それは現状に安住し、更に一歩進もうとする気持ちが萎えていっていることなのでしょうか体調のすぐれない現状の中では、今が精いっぱいの様な気がします。

しかし現状維持に留まることなく、「越えなければならない壁」を自ら必死になって突破してこそ妻に納得してもらえるのでしょう。

 

「大きな悲しみには勇気をもって立ち向かい、小さな悲しみには忍耐をもって立ち向かえ。一日の仕事を終えたら安らかに眠れ。後は神が守ってくださる。」

というヴィクトル・ユーゴーの言葉を今一度かみしめてみましょう。

人間性回復運動は、他者ととことん話し合い、相手を信じ、相手を愛し、心からの関係を深めていくことなのです。

 

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   『言葉はあなたを創ります』24.2.24

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先日、国会の討論に聴きっていました。各党の議員さんから、いろいろと素晴らしい
言葉を聴かされました。選挙期間中、再三聴いた言葉です。

大切なこの国の将来を託す選挙の中で、この様な自画自賛と他党批判の言葉を耳にする
ことで良いのかなと首を傾げたくなったものでした。

 

私の人生を大きく変えたのは、マザ-・テレサの一言でした。

それは高等学校の2年の時でした。

『真心から出た言葉は、感動を与えます。感動は人を変えます。人を動かすのです。』
この一言に、当時弁論部で弁論のスキルを学んでいた私は、ハッとさせられました。

美辞麗句を多分に取り入れ、聞く人の耳に綺麗に響くように訓練をしていた私には、
驚きさえ感じるような一言でした。


マザーテレサの言葉・・・

思考に気を付けなさい。それはいつか言葉になります

言葉に気を付けなさい。それはいつか行動になるから

行動に気を付けなさい。それはいつしか習慣になるから

習慣に気を付けなさい。それはいつしか性格になるから

性格に気を付けなさい。それはいつしか運命になるから

マザーテレサのこの言葉が、私の運命を築き上げて行っているのだと感じています。

 

今日いろんなところで、いろいろと新しい言葉を耳にします。
もっと人との関係を良くするには、この様に振舞うことが必要だとか、人を観察する
方法だとか、言葉使いの方法だとか、ひいては人間理解の方法などと堂々と本に書い
ている人もいるようです。


それらを全て否定するわけではありませんが、それらに真心を感じないのです。
テクニックではなくて、真心こそ人を動かし人に共感を与えるのではないでしょうか。

真心があれば、テクニックは後から付いてきます。
でもどんなに素晴らしい言葉や行為であっても、それがテクニックであっては真心は
後からは付いてくるはずは無いと思います。

自分をどんなにきれい事で飾り立てても、人の気持ちは打てません。

どんなに言葉少なくとも、誠心誠意やっていれば、気持ちは通ずるものです。

 

人生とはこの様なものであると、どんなに声高々と叫んでも耳には聞こえても、心に
は聴こえないのです。
どんなに小さな言葉であっても、“その人”から出た言葉は人を動かします。

 

私を変えたマザーテレサの言葉、“人を愛する反対の行為は、憎しみじゃなく無関心
です。もっと人に関心を持ってください、愛を持ってください”


このマザーテレサの真剣な態度、真心から出た言葉であったからこそ人を動かす“力”
があったのです。

私達はいろんな面において、余りにもテクニックに頼りがちではないでしょうか?
テクニックも必要です。ただその前に、本心からその事に立ち向かう真心が必要なの
だと思います。

21世紀は、心の時代であるといわれて来ていますが、どれだけの方がその心を大切に
なさっておられるでしょうか?

 

私達の日々の平凡な行動の中にも、その心を問うことを訴える素晴らしいチャンスが
ります。それらは、ごくありふれた状況の中にあります。
隣近所の方との、たわいのない挨拶の中で、買い物に出掛けた時、家庭で、その時接
した人々に対して、今その方と関りを持てたことを感謝し愛情を持って接するならば、
多くの人の目に真実の心が通ずることでしょう。


人間性回復運動は、心から自分の存在を感謝しお互いが今ここにあることを喜び合い、
真実の人間関係を築き上げていくことなのです。 

 

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    『過ぎた中に、新たなものを見出す』2024.2.17

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人生90年も生きて来ると、反省することばかりです。
今まで自分なりに精いっぱい生きて来ましたが、その過程は全てが素晴らしいことばかりでは、ありませんでした。
自分で精いっぱいと思ってやって来たことも、他の方から誤解や非難を招くようなこともありました。
人から、蔑まれ罵られたことも度々ありました。

今にして思えば、そういう時って、他人のことを無能だとか馬鹿な行動として一笑に付していました。

それは自分に対する自惚れと、攻撃的な姿勢が私の中に息づいて居たからでしょう。

上手く行っていると思うときは、中々反省する材料が見つからないし、批判・中傷する相手を責めたくもなるものです。

結果だけを見ると、自分の非は見当たらず、相手の非のみが目についてくるものです。

自分の会社の成長発展を期待するなら、自らの行動を安易に変えることは卑怯ではないかとさえ思わされたものです。

その様にして成長を図ってきましたが、ある時期に「企業の成長とは何か!」を真剣に問われる思いがして来ました。


成長するということは、往々にして苦痛を伴うものです。
苦痛を避けて、安易な道ばかり進んでいたら、発展などありえないと思い一心不乱に突き進んで来ました。

ある時、バーナードショーの言葉・・・『自分がこうなったのは環境が悪いからだ、と文句ばかり言う人がいるが、私は環境なんて信用しない。
この世間でりっぱにやっている人物は、自ら立ち上がって望むような環境を探したか、或いはもしそういう環境が見つからなければ、自分で作り出したという人たちなのだ。』・・・に接し、気付かされました。

人の所為にしたり、環境の所為にした所で、何が良くなるだろう!

益々嫌になってしまうのではないか!

自分から、自分好みの環境を作っていけばいいだけのことだ!

 

ニーチェも言って居ますが『何か新しいものだけを独創的といって、古いものを全て打ち捨てている人もいるがそうではない。古いものの中に、新しいものを認めることも独創と言えるはずだ。』

そうなのですね。過去の過ちを振り返り、その中に新しい道を見出すのも、新しい自分の道だと気付かされました。

 

何も新しい事をやり、新しい何かを作り出すことのみに捉われる必要はないのです。

今までの自分を、あるがままに見つめ、他者からもその様な自分を承認され、新たに自分の生き方を、自分なりに決心し邁進することこそ必要なことなのだと、新たに気付き決意致しました。



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     『Congratulation』24.2.10

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Kさんこの度の定年退職、心からお祝い申し上げます。
40数年間の会社勤め色々なことがあり、想い出も多いことと 思います。

良きにつけ悪しきにつけ、人生永い間には いろいろな想い出があるものです。

その想い出に生きようとすると、前へ進むことが出来なくなってしまいます。

今回は、Kさんの新しい人生の出発点です。
そのことを、心から 『おめでとうございます』 と申し上げたいのです。

貴方の40年の業績には、本当に素晴らしいものがいっぱいですね。

あの時は、良かったと過去の想い出の中に自分を慰めていますと、更に前に進むことが
大義になってしまいます。進むことよりあの時を思って、あの時に留っている方がずっと
楽ですものね。

過ぎ去ったことは、二度と戻って来ません。新たな目標を見出して更に前に進みましょう。

ソニーの創業者井深大さんが、言われておられたことですが『先ず強い目標を立てる。
それを達成する為にあらゆる技を働かす。出来そうだからやってみようとは、大きな違い
がある。』という言葉を思い起こします。

今まであなたが身につけてこられた、全ての技(会社での仕事上の技だけではなく、人間
としてあなたに備わった全て)を、もう一度一つ一つ洗い出し見つめ直してみましょう。

そこに、きっとあなたが見落としていた素晴らしい技が見つかることでしょう。

そこで、『あなたが今まで描いていた夢は何ですか、あなたの目的とするものは何でした
かと再度ハッキリと見直して下さい』 必ず素晴らしい新たな道が見出されるはずです。

人は自分の信念に基づいて生きている限り、いつまでも若く活き活きとして居られます。
逆に周りに対して、不満と疑惑の目を向けている限り老いと不運に巡り合うだけでしょう。

人は自分を信じ、希望に満ち溢れている限り、若々しく活き活きとしているものです。

どんな立場にあっても、自らを失い、周りを信ずることをなくしてしまえば、老い果てて
行くだけだと思います。

40年の素晴らしい業績を残し、更に今また新たな自らの人生にチャレンジして行かれる
Kさんに心から「Congratulation」の気持ちを贈ります。


◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◇      『自ら打ち込めること』24.2.3

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若い人たちと話し合って居たら“つまんないなー”ということが何度も口にされているのにびっくりしました。

『何がそんなに“つまんない”』のと聞いてみました。『何って・・・何もだよ』と返ってきました。
『だってさっきまで二人で楽しそうにキャッチボールをしていたじゃない!』と言いましたら・・・
『暇つぶしだよ』と言われました。

つまらないなと思っていたら、何をやっていてもつまらないでしょうね。極端なことかもしれませんが、今これをすることが自分の人生だと思えば、どんどん積極的に取り組めるのではないでしょうか!

退屈だ、退屈だ等と云っている人は、積極的に生きようとする気持ちの無いからではないでしょうか。
そんな人って、自ら素敵な人生を求めようともしていない人ではないでしょうか!

“退屈だな” “いやだなあ”等と思ったらどんなことでも、やる気がなくなってしまいますよ。

私はどんなことでも、自ら進んで取り組みますし、どんな大変なことでも頼まれたら“嫌だなあ”等と思わず積極的に引き受けます。

何事も自分で積極的に取り組んでいると、大変だとも忙しくとも感じませんし、苦とも感じません。
それどころか、楽しくなってくるものです。

もし、“嫌だなあ” “大変だなあ”なんて感じるなら、最初からやらなければいいのです。引き受けなければいいのです。

今それをやることに、意味を感じない・・・その目的・やり甲斐を見出すことも出来ないなら、そんなことはやめればいいのです。嫌々ながらやったところで、たいしたことは出来ないでしょう。

だらだらとやっているだけでは、そんな人って外から見たら暗い頼りない人に見えてしまいます。
そんな人には、仕事を頼みたくも無くなるでしょうし相談したくもなくなります。

人が人として成長するということは、簡単なことだと思います。
何も難しいことでも、進んでしなさいと言うことではありません。

例え難しい問題を解決しても、暗い人には人は近寄りません。仕事の依頼も来ないでしょう。
大切なのは明るさ、素直さ、行動力だと思います。

私は、これを人間成長の三要素と言っています。明るい人に、人は惹かれます。
仕事の援助者も現れます。明るい人は常に積極的で行動的です。

うまく行かないことを周りの所為にしたりして、しっかりと現状も掴まず、不確かな状態が問題だ等という人も居ますが、そんな事は無いようです。

プラス思考の人は、それらのことさえ新たな発想で前向きに捉え、どんどん解決して前に進めていくのです。

自分が今何をしたいのか、目的をハッキリとしてそのことに情熱を持って突き進んでいけば、必ずことは成就します。その事をやろうとする、自分自身の情熱こそが人生のエネルギーだと思います。

自分の好きな仕事、今本当にやりたいことを見出し、それに打ち込んで行きましょう。
自分が情熱を傾けられる天職を見出し、それに打ち込んで行ける勇気を持ちましょう。

人間性回復運動は、自らの人生に全てのエネルギーを、情熱を打ち込んで行く、自分自身の人生行路なのです。

追 明日のZOOMトーク会での東田さんのお話と相反する考えになってしまっているかとも思いますが、敢えて私の今の気持ちのまま書かせて頂きました。(牛島日出男) 


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   『今に全てを集中する』 24.1.27

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誰もが平等に持っているもの、それは時間です。その時間はその時に消えてしまいます。
それ故に、貴重なものなのです。それだけに今を大切にしなければなりません。

私達はその掛け替えのない時間を、どれほど大切にしているでしょうか?

ゲーテが「刻一刻と過ぎていく時間には、無限の価値がある。」と言っています。
私達はその大切な価値を、どれほど高めているのでしょうか?
高めるどころか、無駄に流し去ってはいないでしょうか?

いつかどうにかなるよとか、その時が来ればなんとかなるよとか、今の時間を大切にしていないから出てくる
言葉だと思います。

いますべき事を「今」せずに後に回すことは、後のその時間を無駄に使ってしまうことです。
時間は、今あるだけなのです。
その時やらなかったことを、いくら弁解し悔いたところで、どうなることでもありません。人生は大きな賭けです。
一枚のトランプに大金を賭けるのと同じ様に、自分の現在をより高価なものにしようと努力(賭け)しているから
こそ、人は成長するのではないではないでしょうか。
今を大切に今に集中し、今を生きることこそ人生なのではないかと思います。

私達は過去を悔いて、二度とこの様なことが起きないように努めますと口に致しますがその口が乾く前に、
そのようなことを行っている人を見かけます。

口は都合の良いものです。何度でも同じことを口にすることが出来るからです。
人の気持ちは一度口にしたことは、変わることなく自分の中に残るものです。

その時のその時間は、その時で消えてしまいますが、変わることなく残った気持ちの中で、その一言ひとことを、
如何に素直に実行出来たかが、その人の価値ある行動だと思います。
価値ある時間は、価値ある行動で生かされるものです。

過ぎた言葉や過ぎた行動を云々するのではなくいま、口にしたことを価値ある行動として活かして行きましょう。

人間性回復運動は、全て過去に捉われることなくまた将来を案じることなく、今此処に存在している自分の
時間を、一時たりとも無駄にすることなく、精いっぱい自らの人生に活かすことです。

今現在の時間は、今だけなのです。良く耳にしますが、その時やらなかったことを悔いてどうのこうのといったり、
まだ先のことでどうなるかも分からないことを案じて要らぬ心配をしたりしていませんか。

いい加減にことを進めて、その時だけうまく行ったと喜んでいる人より、何度もやり直しをしても後に悔いを残さ
ないなら、後者を選ぶ人が多いのではないでしょうか!
結果は場当たりの成果より、間違いの無い成果を望むものです。

私は受験もそうだと思います。精一杯頑張って不幸にして不合格になっても、それは素晴らしいことだと思います。
自分に全てを賭けそこに集中することこそ、その人の成長だと思うのです。
今を大切に、今に集中し、今を生きることこそ人生なのではないでしょうか。 



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     『少子化問題に目を向け、将来を築こう』24.1.20

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2050年には日本の人口が1億を切り、さらに減少が進む状況にあるとの情報に接しました。
今後の日本を想うと、たまらない気持ちにさせられます。
少子化は今後益々進んで行くと言われていますが、これこそ何とかしなくてはならない問題ではないでしょうか。

2005年の1月に少子化の問題を提起いたしましたが、当時いろいろな批判を頂きましたが敢えて今回も私論を展開させて頂こうと思います。


私は専門ではございませんが、世の中が経済の仕組みで動いているのは事実だと思います。

ただその様な状況の中で、経済的に優位になることのみを目標にしている傾向が有るのではないでしょうか。

金銭的に豊かであっても、心が貧しくてはどうして幸せなど言えるでしょうか!

 「お金儲けをして、より豊かな生活をするということだって、その人にとっては素晴らしい目標ではないか。」と言われたことがあります。

先に申しましたことは、確かに私の価値観から出て来た言葉であり、思いです。ただ考えてみて下さい。

本当にその人は、お金を儲け物質的な豊かさだけを求めているのでしょうか。おそらく、今現在の物質的な欠乏から来ている欲求に過ぎないのではないでしょうか。

その欲求が満たされたとき、その方は本当に満足できるのでしょうか。

肉体的物質的満足は、時として精神的な渇望を来します。

私の申し上げていることは、心身両面から来る充実感であり豊かさなのです。
決してお金を儲けることを否定はしておりません。

ただその事は、あくまでも自分の人生目標を達成するための手段であるのではないか、ということを申し上げたかったのです。

どんな手段でも、お金を儲ければ良いとするなら、世の中からまともに働き勤労の中から明日へのエネルギーを得ることの尊さが、欠けていくのではないでしょうか。

そうしてそのような方が増えていったら、まともに働かず安楽のみを求める人が増えていったら、日本国の少子化の問題は解決されないでしょう。


国民一人一人が、明日の日本を考え、より豊かな社会を作り上げ、我々の子孫にそのような社会を残して行きたいものです。

ここでいう豊かな社会とは、物質的にも事欠かず、精神的にも満たされた心身ともに充実した社会を言っています。皆が物質的にも豊かになるためには、多くの人が日々の生活に働く場を持ち、その労働を通じて社会に貢献できていることが必要だと思うのです。

その労働の支えになるのが若い人たちです。
その若い人たちが減っていくということは、そのような社会への期待も出来なくなってしまいます。

確かに今美味しいものを食べ、毎日を自由気ままに贅沢に過ごしていくためには、余計な子供より自分だけの生活を考えた方が確実であるかも知れません。
しかし、誰がその後を継ぐのです? 「そんな後のことなど考えるから大変なのだよ、今だけでいいじゃないか」と云われるかもしれません。そこに今日の問題があるのです。


自分さえよければ、というのでは問題は解決しません。
自分の子供が存在して、その子供たちがより充実した毎日を送っていてくれるような社会を考えましょう。
そのことを考え合えたとき、少子化の問題は解決されていくことでしょう。

お互いが豊かに充実した毎日を送っていける社会。素晴らしい社会ではありませんか。
そこには、生きとし生けるものとして、お互いの存在を最高に認め合い、お互いがお互いを愛し合い、相互に助け合い、協力し合って生きていける人が存在するのです。

お互いが、自分の持っているものを率直に出し合い、そのことをお互いが大切にし心と心で交わり合えるような社会こそ、豊かな人間社会ではないでしょうか。

人間性の回復こそ、少子化問題の解決の根幹を成すものだと思います。
人間性回復運動は今の自分を率直に表出し、他人のその時々の気持ちを素直に受けとめ合い、人としての本来的な生き方を共有し合い、人間としての存在に自信と喜びを持って、自らの人生を謳歌して行こうという一人ひとりの人生行路なのです。




◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◇     『心身一如・喜びに満ちた毎日を 』24.1.13

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心身一如と昔から言われてきていますが、昨年一年間はまさに私達夫婦にとってはその通りだったと思います。

63年連れ添ってきた妻が、癌と診断された時は如何に強気なことを言って居ても眩暈がする思いでした。

友人や知人の前では、明るく振舞ってはいましたが一人になると何とも言えない寂しさと不安で涙することもありました。

毎朝の二人での体重測定も、私から声を掛けるのに躊躇するようになっていました。
その様な時は食事もあまり進みませんでした。

昨年末19日に、私が隋堆歯突起症候群という大変な病に罹った時、更に落ち込んでいく自分自身にシッカリしろ!と声を掛けても、どこかに不安が付きまとっているようでした。

万一のことがあったら、残された妻はどうするだろう?なんの準備も出来ていないはずだ、金銭的にはともかく、何も書き残していないし・・・と次々と想いが駆け巡ってきました。

妻の癌の手術も無事済ませ、3週間おきの抗がん剤治療を続けて来ましたが、医師から手術の結果早期の為、再発の恐れはないと言われ、ホッとした瞬間、何だか力が湧いてくるような思いがしたものでした。

不思議なもので、その次の朝から途絶えていたTV体操の時間が待ち遠しくなりました。

背筋を伸ばし、大きな声で「いち にっ さん し・・・」と掛け声をかけて毎朝が楽しくてたまらくなりました。

それ以来嫌なことや、何となく体調が思わしく無いなと感じた時は、逆に大きな声を出したり、肩の力を抜いて胸いっぱい深呼吸をしたりして気持ちの充実を図って居ますと体調も回復してくるのです。

もともとその様にしてはいたのですが、有難う!と言う言葉が次から次と出て来るようになりました。

「はじめに言葉ありき」 とあります様に、言葉は私たちの気持ちを左右するものだと思います。

積極的な言葉は、勇気を、エネルギーを与えますが、消極的な言葉は不安と落ち込みしか与えて呉れません。

私の経験から、人生には嫌なことや悪いことはそれほど多くはないものだと思って居ます。

ですから消極的な言葉や愚痴はこぼさない方がどうも得な様に思います。

日頃何となく使って居る言葉が、この様に影響しているとは思わないでしょうが、消極的な言葉とは 「さようなら」 して、積極的な言葉を大いに喜んで迎え使って行きましょう。

必ず人生が変わってきます。生き方が変わって来るのです

困ったことも減って来るでしょうし、悲しいこともなくなり毎日が楽しく活き活きとしてきます。

積極的な言葉を使って居ると、いつのまにかエネルギーのレベルが、ぐんぐんと高まって行くのです。

その為にはまず自分の心を強く持つことです。自分自身を信じるのです。

自分自身に消極的なものに引き付けず、常に前向きに積極的な行動に結び付けて行きましょう。

病気も 「気の病」 と思えば、病むことが馬鹿らしくなります。
そうして毎日毎日が楽しく、生きていることがなんて素晴らしいのかと喜びと感謝の気持ちで満たされてきます。

さあ今日も一日元気で楽しく自分自身の人生を謳歌していきましょう。これこそ人間性回復運動の根源です。 


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      『明けましておめでとうございます 』2024.1.6

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今年も何となく、ご近所の方から「明けましておめでとうございます」と年始の挨拶を頂きました。

私達が何の疑問も無く使っていますこの言葉には、大きな意味がありました。

「明けまして」とは、日と月が「開・空」いていくことを言うのだそうです。
日はこころ、月はからだです。新しい心と体は開き・空になりましたか?

ここにその扉をひらく「キーワード」があります。

「だれでもこの山に、動き出して海の中に入れと言いその言ったことは必ず成ると心に疑わないで信じるなら、その通りになるであろう」

人の「努力」を「人間学」と言います。今はやりの「積極思考」の類いです。

巷の経営学書はこの人間学を盛んに「論」じますが、その努力もここまでです。

それは願うことをすすめますが、祈ることを知りません。望むことをすすめますが、信じることが判りません。

「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」

「人間学」の果てるところに「神間学」が始まります。願い・望みは「地上」のものです。

祈り・信じることは「天上」のものです。

「宗教用語」などと無知なことは言わずに「地上」のものを「天上」にもちあげることです。
今年こそ「山」を動かしましょう。いくつもの「山」を―
(以上私の信頼する安達牧師よりお借りいたしました)

新しい年を迎え多くの方が今年はこうしよう!こうありたい!と思うのではないでしょうか。

私も今年こそはと毎年思い、それなりに努力してきたつもりです。しかしそれがどれほど出来ていたかというと決して思っていた通りには達成できておりません。

私は以前、安達牧師から頂いたメールを思い、そうだったのだと納得できました。

自分なりにやってきました。しかしそれは達成したいという願望であり、望みでした。

そうして達成できなかったことを、今この状態だからだとか周りの理解が足りなかったからだとか、達成できなかったことを自分なりに言い訳をしてきたような気がいたします。

その達成に向かってどれほど真剣に祈ったことがあっただろうか?

その達成を自らどれ程信じて邁進していただろうか?

私にはこのことをやっているのだという驕りがありました。当然人は付いて来てくれるはずだという思い上がりがありました。
そこには祈りなど必要としていなかったのです。なんと恥ずかしい傲慢さでありましょう。

自らその達成を信じないで、誰がサポートしてくれますでしょう。
自らを信じない者を、だれも信じてくれるはずがありません。

今年はこの戒めを身に刻み込み、私の主唱する人間性回復運動に邁進いたします。

今年も世界のあちらこちらに多くの人が、その日の食にさえ飢え、お互いが憎しみ合い、尊い命を失っていっているのです。

このような時、私たちは世界の平和を祈り地上に信頼と愛に満ちた国が築かれることを祈り、自分達の僅かな行為であれ、いつの日かきっと訪れる平和を信じ一歩一歩と進んで行こうではありませんか。

人間性回復運動は人を信じ自分を信じ、積極的に行動する新たな自分を発見する場です。



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